依代 2      作: 玲 ******************************************************************************** ☆彡6. 「サイレン鳴らしては来ないんですね、パトカーって。裏口から入っているのかなあ、お 巡りさんの姿も見えないし。緊迫感がないですね」 3階の廊下の窓から、駐車場に並ぶパトカーと救急車を眺めて、水代がつぶやいた。 「穏便に済ませようとしているんだろうね。それに、ここは収録スタジオだから、警官の 服装をしている人物が歩いていたって、それほど違和感もない」 奥の搬入出用エレベーターホールは、各階にテープが貼られて封鎖されていた。1階のエ レベータホールには、エレベータ管理会社の職員と消防署のレスキュー隊員、警察官など がごちゃ混ぜになって、エレベータシャフトの底から死体を引き上げる作業をしているは ずだ。私達はそんな騒動から離れてスタジオ棟を一巡りし、今は3階北側にある自殺のあ った女子トイレを目指していた。一巡りといっても、体育館並みの大スタジオが4つ、や や小ぶりなスタジオが7つもある巨大な施設である。ハイキング並みの距離を歩いたこと になる。私のなまった足腰にはきつい行程だった。まさに足を棒にして歩いてきたが、今 のところ収穫はほとんどない。事件のあったスタジオと俳優の控え室を観てきたが、薄い 障気のような物が漂っているだけだった。 「あの〜、さっきの死体・・・。あの死んだ人達が、事件の原因っていうわけじゃないん ですよね?」 水代は相当へばっている様子だ。歩くたびにキュッキュと鳴るスーツを鳴らさないように 気を配り、断熱されて汗みどろで歩き続けてきたのだから無理もない。キュッキュという 音とは別に、グチュグチュという湿った音も聞こえるようになっている。ゴムスーツの中 に相当な汗が溜まっている証拠だ。 「彼らも被害者さ。可哀想に。最初のひとりはアシスタント・ディレクター。2週間ほど 前だ。次のひとりはスタイリストの見習いかな。1週間ほど前。そして最後が深夜番組の 水着タレントのひとりだろう。4日ほど前だ。事件が始まったのは1ヵ月ほど前からだか らね。彼らが犯人じゃないよ。徹夜続きだったり収録が深夜まで押して疲れていたんだろ う。エレベータの箱がまだ上の階にあるのにエレベータの扉が開いて、そこに箱があると 思いこんで奈落に踏み込んでしまった・・・。おそらく弱った精神状態につけ込まれて、 半ば支配され、朦朧として吸い込まれてしまったんだね。ハードワークに耐えかねて突然 来なくなるスタッフも多いから、誰も彼らがいなくなったことに不審を持たなかったよう だ。未だ隠れて気配も見せないが、ここには単なる霊以上のものがいそうだよ」 「死に方まで、わかるんですか・・・。それに・・・単なる霊以上って・・・それって危 険なんじゃないですか?」 「人死にが出ているんだから、危険だろうね。まあ、無理をするつもりもない。依代のい ない浄霊者なんて、休業するしかない半端物だからね。手に負えないようならすぐに逃げ て、他の霊師を紹介するつもりだよ」 「逃げてって・・・そんな簡単に逃げられるんでしょうか・・・」 それには答えず、曖昧な笑みを返すだけにした。水代は急に息苦しくなったように首周り をまさぐっている。ゴムスーツの暑さによる汗とは違う汗を掻き始めたようだ。アドレナ リンの臭いがしそうだった。 通路の先にトイレの標識が見えた。男性用女性用、ふたつのドアの前にスタンドが立てて あり、『使用禁止』の張り紙が貼ってある。その前に立ち、私は気配を探った。思った通 り、女性用トイレの中から、ぬるりとしたドブ臭さが漂ってくる。自殺者に特有の陰にこ もった腐食の感覚だ。 「あのー、ここってもしかして・・・自殺があったトイレなんですか?」 「そうだよ。何か感じるかい?」 「・・・いえ。でも何となくこの一角は薄暗い感じがして、嫌だなあって思いますけど」 私はスタンドを横にどけ、女子トイレのドアを開けた。トイレ内の照明は落とされ、中は 暗やみに包まれている。一歩入ると靴底でじゃりっとガラスの砕ける音が響いた。廊下か らの明かりでかろうじて照明のスイッチを見つけ、スイッチを入れると、天井に一本だけ 残った蛍光管がジジジっと音を立てて薄ぼんやり灯った。他の3本の蛍光管はすべて床に 落ち砕けている。 「瀬那さん。何だかもの凄く怖いんですけど。何で蛍光管が落ちちゃってるんでしょう。 もの凄くカビ臭いし。何かいるんですかここ? いるんなら先に教えてくださいよ〜」 「たぶんね。いるみたいだね。怖いならそこで待っててもいいけど。でも、それほど凶悪 な気配は感じない」 私はじゃりじゃりと蛍光管の破片を踏み締めて中に入った。手前の右手に洗面台が3つ。 そこの鏡も無惨に砕けている。奥の両脇に個室が3つずつ。奥のふたつの扉がわずかに開 いていた。床は濡れていて、トイレ内の湿度が異常に高い。明滅を繰り返す蛍光管が鬱陶 しい。私は慎重に奥の扉に歩み寄っていった。背後でジャリっとガラスを踏み砕く音がす る。ほう。ついてくるとは。水代の勇気に感心した。 「瀬那さん。このスーツが守ってくれるんですよね」 声を顰めて水代がつぶやく。 「まあね。でも、顔はガードしていないから、口を閉じて静かに呼吸していた方がいいと 思うよ。君の存在は霊にとってフェロモンみたいな・・・」 と、奥の個室のドアがゆっくりと開き始めた。窓もない。風もないのに。 「あの。瀬那さん。ドア・・・ドア・・・」 私は後ろ手に手を振って水代を黙らせ、何かを待ち受けた。ドアが開ききり・・・カラカ ラと安っぽいプラスティックのボトルが転がり出してくる。何かでドロドロに汚れている が、トイレの洗浄剤だろうと見当がついた。後ろでヒッと水代が息を呑む音がする。私は 身体に循環させておいた気に真言に乗せ、水代にもわかるように言葉も発しながら、開い たドアに息吹いた。 「出ておいで。苦しいんだろう。楽にしてあげるから」 ドアの奥に空気が吸い込まれていくような感触がした。実際に空気は動いていないのだが、 ある種のエネルギーが吸い込まれていったのは確かだ。寒気を感じる。室温が数度は下が っているだろう。最初に見えたのはドアの枠につかまった指だった。床から1メートルほ どの位置だった。ずるずるっと何かを引きずるような音がして、パタンともうひとつの手 が床に投げ出された。床のタイルを掻き毟るように曲げられた指先。ざらっと垂れた長い 髪が溢れ出した。ずるっと女の頭が滑り出てくる。根元が肉についたまま剥がれた爪をひ らひらさせて、床に手を突く。床に拡がった髪の毛の奥から赤黒い液体が染み出してくる。 女は、粘つく床から無理矢理引き剥がすように、倒れた身体を持ち上げようとしている。 床に拡がった髪の毛も、赤黒い汁を垂らしながらぞろぞろと引き上げられてゆく。ゴキッ ゴキッと関節の鳴る音がする。四つん這いになった女は、巨大な虫のようにぎくしゃくと 個室から這い出そうとしていた。 「瀬那さん。瀬那さん。見えるんですけど。出てくるんですけど・・・」 蚊の鳴くような水代の声がする。水代にも見えるとは予想外だった。それほど凝縮度が高 いということだ。女の上半身がトイレから這い出し、そこで壁に手を突いて立ち上がり始 めた。壁に血の手形がいくつも押される。ジジジっと天井の蛍光灯が瞬く。一瞬の闇の後、 フイルムの途中経過を切り飛ばしたように、奥の壁の前に立ちつくす女の姿があった。以 前は白かったのだろう、どろどろに汚れたブラウスとスカートの胸から下が真っ赤に染ま っている。うつむいた女がゆっくりと顔を上げると、垂れ下がった髪の毛の隙間から、血 で汚れた口と引き裂けそうに見開かれた片目が見えた。黒目がぎょろぎょろと動き回り、 唐突にぴたっと止まった視線の先は、私ではなく、入り口横の壁に貼りついているであろ う水代だった。 「瀬那さん。瀬那さ〜ん。何か、僕を見てませんか? 僕を見てますよ〜」 私は再び後ろ手を振って黙らせた。あまり霊の注意を引きすぎてもまずい。私は佇む女か ら目を離さず、瞬きもしないようにして水代に答えた。 「口を開くな。声を出すな。じっとしていろ。何があっても動くな」 ちょっと厳しい口調になってしまったが、水代には切迫感として伝わったようだ。私は再 び気を練り、真言を乗せて発した。 「もうひとり、いたはずだね。出ておいで。怖れなくていい」 二度繰り返す。トイレの中の気が動いた。しかし、もうひとりの女の姿が見えない。ぽた ん。ぽたん。水滴の滴るような音がした。そして、ぱたた、と私の肩に降りかかる物があ った。つんと鼻に滲みる血と薬品の臭い。 「上」 水代の切羽詰まった声がした。私は反射的に一歩下がって上を見上げた。天井に蜘蛛のよ うに張り付いた女がいた。首を180度曲げて下を向き、大きく開かれた口から血反吐が 噴き出す。私がさっきまで立っていた場所に大量の血反吐がぶちまけられた。溶けた内臓 の凄まじい生臭さが部屋中に拡がる。私が一瞬上を見ていた隙に、壁際の女が手を前に差 し出して歩き出そうとしていた。 「とまれ。みんな、動かないで」 かなり強い真言と気を発する。歩き出そうとしていた女は一瞬溶け崩れたようになり、フ ィルムを巻き戻したように元の位置に戻った。うつむき、垂れ下がった髪の毛の間から、 溶けた内臓の血泥がゴボゴボと吐き出される。爪の剥がれた指で顔と喉を掻き毟り、何か 赤い塊がボタボタと落ちた。 「上の貴女も降りておいで。苦しいんだろう。洗浄剤を何本も飲んだんだってね。私には 想像もつかない苦しさだろう。天井にいる貴女は・・・苦しさに我に返って吐き出そうと したのか。必死で這いずって逃げだそうとしたのに・・・何かの力で天井に磔にされたん だね。首を捩じ折られて・・・痛かったろう。でも、繰り返すことはない。君たちはもう 死んでいるんだから。苦しい時間は終わったんだよ。ほんとうはもう痛くないんだ。だか らもう、逃げなくていいんだよ。繰り返さなくていいんだから」 真言と気を、柔らかく八方に拡げるようにイメージして発する。目の前を、上から下へ、 黒い影がばさっと通り過ぎた。骨の砕ける嫌な音がした。天井にいた女が首と手足を奇妙 な方向に曲げ、床に倒れ伏している。私は一歩踏み出し、その女に手を差し伸べた。 女は捻れた首を振り動かして、見上げるように私の手を見つめている。私は温かさを意味 する真言を発し続けた。ゴリッと折れた骨の擦れ合う音をさせて、黒いワンピースの女は 血にまみれ薬品に爛れた細い腕を伸ばし、私の手を取った。冷たい。死者の体温が、私の 生気を奪っていく。下腹に力を込め、体内を循環させていた気のダイナモを、さらにもう 一段アップさせる。ゆっくり女を引き起こし、壁際のもうひとりの女の横に導く。私はも うひとりの女の手も取り、生気を吸い取らせるままにした。 「自殺したからって、自分を責める必要はない。自殺は罪じゃない。まして、君たちはほ んとうに自ら望んで自殺したわけでもない。このスタジオに巣くう邪な存在の障気に当て られ、弱っていた心を操られただけなんだから。苦しみから目を逸らして、思い出してご らん。死ぬ前の楽しかったこと。考えてごらん。君たちを今苦しめているのは、君たち自 身の強い思いなんだ。まだ生きたかったんだろう。死にたくなかったんだろう。でも、残 念ながら君たちは死んでしまったんだよ。君たちの未練はわかる。だからといって、こん な場所に囚われている必要はないんだ。逝くべき場所がある。苦しいだけの循環から目を 自分の心の奥に向けてごらん。それは君たちの心の奥に、ちゃんと示されているはずだよ」 私は根気よく説得を続けた。何度も同じことを繰り返し、死の苦しみの循環へ逃げ込もう とする心を、引き戻す。少しずつ、少しずつ、石に水が染み込むように私の言葉が結び目 を解き、ふたりの女は理解していった。握った手はいつしかもう冷たくはなかった。 「昔の楽しかった頃の自分を、思い浮かべなさい」 私がそう命じると、ふたりの女の様子が変わった。血まみれの服から血の汚れが消え、ふ たりの顔からも歪みが消えた。生気はないが生前のきれいな顔が戻った。 「水代君。まだ見えているかい?」 「は、ひ、い、いいえ、何だか血が消えたと思ったら、ぼんやり光るみたいにして・・・ 薄くなって・・・見えなくなりました」 「悪いんだけど、外に出て・・・廊下の窓の端に換気用に開く部分があるはず・・・それ を開けてきてくれないか。ゆっくり動いてね」 「は、はい」 水代は、そこいら中が地雷原とでもいうように爪先立ってトイレを出ていった。しばらく して、入り口からおそるおそる顔を出し、窓を開けたと伝えてくる。私はポケットから紅 の小箱を取り出した。蓋を開けると、清々しい沈香の香りが立ち上る。枯れた沈香樹から 採取された『死沈』と呼ばれる希少な沈香をベースにした香油に紅花の赤い色素を練り込 んだものだ。紅を小指に取り、女達の唇にひと捌けふた捌け塗りつけてあげる。絶対に必 要な儀式というわけでもないが、私なりのはなむけの作法だった。 「さあ、出口は開いているよ。行きなさい」 そう告げると、女達の立像は揺らめき、消えた。微笑んだ女達の残像を残して。廊下で、 わっという水代の声がし、覗いてみると、水代が壁によじ登ろうとでもするかのような格 好で貼りついている。 「何か、何かが、僕の脇を、抜けていったような気がしたんです」 あせって大声を出し、自分で気がついて慌てて自分の口を押さえている。 「もう、声を出しても大丈夫だよ。ふたりは逝ったから」 私は廊下に置いておいたバッグから塩と香草を取り出し、念のためにトイレの個室のひと つひとつに塩を撒き、清めていった。床に小皿を置き、そこに香草を入れて火を点す。た だの線香でもいいのだが、私はラベンダーを使う。アロマテラピーでいわれる心身のリラ クゼーション効果が空間に凝縮した念にも作用し、凝縮を拡散させてくれる。その作用は 物理的なものではない。だからこそ霊現象にも使えるのだ。同じ作業を男子トイレでも繰 り返しておいた。 「君が手伝ってくれて助かった。ありがとう。しかし、予想以上に強力だったから、さす がに、疲れたよ。食堂で早めの夕食と休憩にしよう」 私は馬越に電話し、3階のトイレを至急清掃するように告げた後、壁際に所在なさげな風 情で何故か内股になって立ちすくんでいる水代に提案した。水代が情けなさそうに私を見 つめ、消え入りそうな声でいった。 「すいません。瀬那さん。・・・僕・・・ちびっちゃいました」 私は爆笑した。 ラベンダーの香り漂う男子トイレに水代を伴って入り、個室のドアを開いて招く。水代は 未だこわごわと摺り足で寄ってきた。 「まだ今回の原因そのものが取り除けていない状況で、君にスーツを脱がせるわけにもい かないし、可哀想だが漏らしたオシッコを抜くだけしかできない。まあ、自分のオシッコ だから下半身オシッコまみれでも我慢できるだろ。スーツから臭いが漏れることもないし ね。ついでに汗抜きと排尿の仕方を教えてあげるよ。ジーンズは脱いだ方がいいな。ゴム パンティはまだだよ。今パンティを下げると大変な事態になってしまうからね」 「すいません。でも、ここは大丈夫なんですか? こっちは床とかもキレイだけど・・・。 隣みたいに、何か出ませんか?」 「まあ、絶対とはいえないけれど、一応清めたからね。出ないとは思うけど。それとも別 のトイレまで歩くかい。ちょっと遠いけど」 水代は爪を噛もうとして手袋を噛み、慌てて手を外した。 「ううう。他の・・・。人の出入りが・・・。いや、ここでいいです。ここで」 水代は、手袋を外してスニーカーの靴ひもを解き、怖々とあたりを伺いながらジーンズを 脱いだ。スニーカーを置いて持ち上げられた脚が重そうだ。よろけながら片足ずつジーン ズから抜き出し、抜いた脚は再びスニーカーを突っかける。水代は几帳面にジーンズを畳 んで、手袋と一緒に便器の向かいに設けられている小棚に置いた。真っ赤なゴムにぬめる 下半身が晒されたが、靴下とスニーカーは着けたままなので、スパッツのようにも見え、 それほど変態的な見た目ではないのが残念だ。テレビ局のスタジオだから、ダンスリハー サル中のタレントや振り付けの先生など、あたりまえのようにこんな格好でうろうろして いる。それにしても、水代は美形だ。このまま美少女ユニットの中に潜り込ませても、ナ ンバーワンになれるのではないだろうか。とはいえ今は、お漏らしの始末だ。よく見ると 足の踝から脛のあたりがどことなく靴下ごと膨らんで見える。足の動きにつれ、たぷんと 揺れる。これでは歩きにくいだろう。 「このスーツは肛門にしか穴がないからね。ゴムスーツの中に溜まった汗やオシッコは、 その肛門の穴から抜いてやるしかないんだ。便器に座って、手を回して肛門の穴の部分を 引っぱるように浮かせば、そこから流れ出していくから。しかし、見るところ、漏らした オシッコが股の締めつけを通り抜けて脚にまで流れ込んでしまったようだね。それは座っ た状態で脚を上げて、しごくように股間に戻してやらなくちゃならないな。まあ、そんな ところだ。ひとりでできるかな? 難しいだろうが、私に触られたくないだろうし、見ら れるのも恥ずかしいだろうから、私は廊下の先の喫煙コーナーで待っているよ」 と、去りかけたところで、水代が溺れた子供のように、必死で私の袖に取りすがった。 「わあああ。待って。瀬那さん。ひとりでこんなところで。できませんよ〜。怖すぎます。 お願いだから一緒にいてください。頼みます」 「だって、漏らしたオシッコを尻の穴から出すところなんて、見られたら恥ずかしいんじ ゃないのかい? それに私も、今ので疲れてるしなあ」 「いえいえいえ。この際ぜひ見ててほしいです。こんな所にひとりで残されるくらいなら、 恥ずかしいのなんてへっちゃらですから。それに、ゴムをつまんだり脚を上げてしごいた りなんて、ひとりでいっぺんにできませんよ。お願いします〜」 「腕や胸にも相当汗が溜まっているみたいだし、この際それもしごき出した方がいいんだ が。しかし私が手を貸すとなると、変態中年男に身体中を触りまくられることになるし、 私も嫌いじゃないから楽しんでしまうだろうしなあ。それでも平気なのかい?」 わざと好色そうにいってみる。 「変態中年男って・・・瀬那さんは違いますよ。ほんと。まじに。だって、さっきの女の 子達の・・・霊・・・に対する瀬那さんの言葉を聞いて、僕、感動しましたもん。もの凄 く優しくて。あんなにもの凄い状況の女の子達が・・・自分を取り戻して・・・成仏して いくところを目の当たりにしちゃったら、もう、尊敬するしかないです」 「うーむ。ちょっと勘違いがあるよ。私は死者には優しいけれど、生者には厳しいってい われてるんだな。まして生者の美青年にはイヤラシさ全開をモットーにしているんだが」 「う。ううう。でも、この際、触られるくらいいいです。手を貸してくださいよ」 こちらの狙った通りに反応してくれる。じつに素直な青年である。 「よし。じゃあ、セーターも脱いでしまおう。胸のあたりに相当汗が溜まっているだろう」 「え、セーターもですか?」 といいながらも、水代は不承不承といった体でセーターを脱いだ。全身真っ赤のラバース ーツ姿が晒される。それがトイレの中というシチュエーションだから、いっそう卑猥だ。 水代に万歳をさせて、掲げた手の平から揉み込み、汗を下に押し出していく。ゴムの下で のジュルっという手応えが、何ともいえない。腕から押し出された汗は、胸の弛みに溜ま り、そこをほんのり膨らませて、まるでその下に初々しい乳房でもあるかのように見えて いる。私が後ろに回り、胸を揉み始めると、水代は小さな呻き声を上げて逃れようとした。 「ああ。そ、そこは自分でやります」 「おいおい。手を下ろしたらせっかく抜いた汗が、また戻ってしまうじゃないか。胸の汗 を抜かなくてもいいのかい。乳房みたいで可愛いけど」 「あ、いえ・・・すいません。お、お願いします」 私はわざとイヤラシイ手つきで揉み込んだ。ゴムの内側の水代の乳首を、それとなく刺激 してやる。汗が抜けていくに従い、乳首にも触りやすくなる。 「瀬那さん。その、あの、くすぐたくて。わざと乳首に触ってませんか? 勘弁してくだ さいよ〜」 「役得だよ。気力を振り絞って消耗しているというのに、面倒な力仕事を手伝ってあげて いるんだからね。少しは楽しませてもらわなくちゃ。それに、気持ち悪いだけじゃないは ずだよ。ゾクゾクしてるんじゃないのかい」 「いや、そんな・・・ことは・・・」 「嘘をついたって、男はね、股の間を見ればわかっちゃうんだからね。何となく、膨らん できているように見えるのは、私の目の錯覚かな? おっと、手を下ろしちゃいけないよ」 水代は沈黙した。私はかさにかかって水代の乳首を責め立てる。ただし、ここで力任せに 揉みつけても逆効果だから、あくまでも触るか触らないかというくらいの微妙なタッチを 心がける。唇を噛んで耐えていても、鼻息の漏れ具合で水代の感度は測れる。先ほどの恐 怖体験の余韻が残っているのだろう。毛穴が消えるほど恐怖した身体は敏感になっている。 我慢しきれなくなった水代が、ついにくねっと身を捩ったことで、今回の馴致は目的を達 成したと判断して、最後にぎゅっと胸の弛みを押しつけてやる。ジュルっと汗が下に流れ 落ち、私が手を離すと、水代は女のように胸を押さえて内股に尻をくねらせた。 「感じただろう?」 「え、いや、だって・・・あうっ」 私は指で水代の股間を弾いてやった。 「硬いぞ」 「ううう。酷いですよ、瀬那さん。誰だって、あんな風に触られたら、感じちゃいますよ」 「素直だね。感じたことは認めるんだね」 「あ、う・・・」 「ははは。まあ、いいさ。私も楽しんだからね。それじゃあ便座に座って。ゆっくりね。 お腹に溜まっている汗が移動しないように」 水代は相変わらず胸を押さえたまま、ゆっくりと便座に腰を下ろした。乳首がいまだにジ ンジンしているのだろう。座ると大きな溜息をついた。 「グラビアタレントじゃないんだから、いつまでも胸を押さえていないで。少し腰を浮か して、そっとゴムパンティを下ろしなさい。少し噴き出るから、あたりを汚さないように 注意した方がいいよ」 「はひ・・・」 水代はもうやけくそになった様子で、パンティに手をかける。ギュギュっと引き下ろした とたん、肛門穴からブシュッと濁った液体が噴き出した。しかし、噴出は一瞬で終わって しまう。股下のゴムが、その強い収縮力で皮膚に貼りつき戻ってしまったのだ。 「両手で肛門の穴をつまんで、下に引っぱるようにしなさい。ゴムが皮膚にくっつかない ように引っぱっているんだよ。そうそう。じゃあ、右脚から上げて」 差し上げられた脚を受け取り、靴と靴下を脱がせてしごき上げると、大量の小便が流れ落 ちてゆく。私が絞り上げるたびに、水代の肛門穴から間欠的に液体が噴き出した。 「ずいぶんたっぷり漏らしたもんだね。溜まってたんだなあ」 「ううう。あの、聞きたいんですけど、瀬那さんは・・・あれ・・・怖くないんですか?」 水代が照れ隠しに違う話題を振る。私は脚一本分終わって、靴下と靴を戻してやりながら 答えた。 「今でも、怖いよ。いくらかの慣れはあるけどね。思いもかけないところから迫られたら、 今だって驚かされるしね。でも怖がって集中が乱れる方がもっと怖いかな。おとなしいと 思っていた霊が豹変することもある。恐怖ですくんでいたら命の危険もある仕事だからね。 といっても、恐怖は心身を適度に緊張させ、エネルギーを生むし反射神経も活性化してく れる。怖さを感じなくなる方が怖いよ。だから怖さは受け流す。受け流して体内を適度に 循環させる。押さえつけるんじゃなくね。ほい、左脚を上げて」 「あ、はい。あの・・・立ち入ったことなんですが・・・霊師のお仕事を休業していたの は、依代である奥さんが亡くなったから、とおっしゃっていたように思うのですが・・・。 その、あの・・・いや、やっぱりいいです。すいません」 「構わないよ。私の妻は何で死んだのかということだろ。隠すつもりもない。浄霊の失敗 さ。不意を突かれた。まったく気配すらなかったのに、一瞬で信じられないほど凶悪な、 怪物みたいな怨霊に取り込まれたんだ。霊とはいえないほど狡猾で強力な相手だった。私 は動きを封じられ、喉を打たれて声も出せなかった。真言も唱えられない状況でね。そん な私を助けようとして、妻は器を超える霊をいっぺんに吸い込んだ・・・」 私は水代の左脚をしごき終え、靴下と靴を戻した。 「あの・・・すいません。余計なことをいいました。ほんとに、すいません」 「いや。君が謝る必要はない。そのうち話すつもりだったからね。こういう状況でだとは 思わなかったが。さて、じゃあ最後に、お腹のあたりに溜まってるオシッコを押し出さな いとね」 「はい。お願いします」 なんとなく肯いてしまった水代は、その結果をまったく予想していなかった。私は遠慮な く水代の股間に手を差し込み、ゴム越しに水代のペニスを揉み込んだ。 「わっ。ちょっ・・・あ」 「この脇にたっぷり溜まってるだろ。ほらほら、穴を引っぱってないと」 「瀬那さんって、マジに変態です。もうっ」 という割りには必死で嫌がっている風でもなかった。私はここでしつこくすると雰囲気を 壊すと計算し、指を動かさず、小便を押し出す動きだけに留めた。最後の小便がブシュッ と噴いたのを確認して、手を離す。 「トイレットペーパーで、軽く穴の上から叩くように滴を拭うといいよ。そしたらパンテ ィを戻して」 パンティを戻す水代が、私に触られて硬くなってしまった股間を庇うように腰をくねらせ たのを見逃さない。触られ慣れしてきたということだろうか。思った以上に場の力が強く、 まだ霊視の力を開いていない水代にも霊の姿が視認できたことが、私に対するわずかな信 頼感を生み出してくれたようだ。怖さと心細さという要素も、私に対して心理的に依存す る重要なファクターになっているだろう。 「さて、食堂でしっかり食べてエネルギー補給した後、いよいよご本尊を拝みにいくこと にしよう。ここの女性達は死んでまだ間がないから、話すだけで浄霊もできたが・・・。 ご本尊はそうもいかないだろう。かなりな難物のようだ。気力と体力をしっかり回復して おかないとね」 「え、事故死した美術の人の現場は行かないんですか?」 「いや。行くさ。どうやら、そこがご本尊のいる場所のようだ」 時刻は午後5時を回ろうとしていた。冬の日は短い。そろそろ外は暗くなってきているだ ろう。日のあるうちに対決するのは無理なようだ。ということは・・・不利な闘いになる ということだった。 ☆彡7. 食堂で私はカレーと焼き肉定食を食べ、水代は食欲がないようでサンドイッチを半分ほど つまんだだけだった。自殺した女性達の凄惨な様子を見た直後だけに、気持ちはわかる。 それとも私に全身を触りまくられたせいだろうか。それでも、混み合ってきた食堂で、テ レビでよく見るタレントや俳優達を目の当たりにして目を輝かせているのだから、心配な いだろう。いったん席を立ち、うどんとデザートのケーキとポット入りのコーヒーを運ん できた私を見て、水代が目を回していた。 「凄い、食欲ですね・・・それでよく太りませんね」 「今さっき、ふたり分成仏させるだけの生命エネルギーを分け与えてしまったからね。み ぞおちのチャクラを大回転させて消化吸収能力を常態の10倍くらいに上げてるんだ。今 食べたものはほとんどウンチにもならないくらい吸収されて、失った生命エネルギーを補 うから、脂肪になんかならないよ」 「チャクラって・・・スーパーマンになれるスイッチみたいですね。僕は食欲ありません。 もしよかったらこのサンドイッチもどうぞ」 「ありがたく」 旺盛に食べ続ける私を見ながら、水代は溜息をついた。 「僕はまだ、今見たものの整理がつきません。ショックが大きかったからか、まるで夢を 見てたみたいな気にもなります。あれが・・・霊なんですか。惨いですね。瀬那さんが解 き放ってあげなければ、永遠にあんな所で苦しみ続ける・・・」 「長い時間をかければ、自然消滅していくけどね」 「しかし、その間、何十年も何百年も苦しみ続けるんでしょう。可哀想すぎます」 私はすでにうどんを丸呑みし、水代のサンドイッチをほぼ食べ終えていた。最後の一切れ を口に放り込み、コーヒーで流し込む。 「ふう。人心地ついた。水代君にちょっと勘違いもありそうだし、馬越氏から連絡が来る まで動きが取れないから時間もある。水代君もその目で見て体験したことだし、霊につい て詳しく話しておこうか」 「勘違い・・・ですか?」 「うん。君は、あのトイレで見た霊達が、死んだ女性達そのものだと思っているだろう」 「ええ。違うんですか? それは、肉体はなくなってますけど・・・魂というか、意識と いうか、そういうものがあの場所に囚われているんじゃないんでしょうか?」 「魂か。ううむ。俗にいう魂なんてものはないんだよ。霊と生命エネルギーに関しては、 科学的に証明されたものではなく、私達霊師が3000年がかりで経験的に体系づけた説 でしかないから、その辺を考慮に入れながら聞いてほしいんだが・・・。意識とは肉体と 脳の相互作用で、ほとんどが脳の電磁的化学的機能として説明できる。ただ、生き物は、 現代科学的にはまだ認知されていない、生命エネルギーというエネルギー形態を利用して いるんだ。しかし、この生命エネルギーは生命そのものを構成する力で、意識の活性力に なるものの、意識そのものには関係しない。食べた物を分解して得られたカロリーに、意 識や個性がないようにね。だからこの生命エネルギーは魂とはいえない。俗に『気』とは いうけれどね」 「魂はないんですか? じゃあ死後の世界は・・・」 「あるといえばあるし、ないといえばない。原則として、人の意識は死とともに失われる。 人に限らず命あるものが死を迎えたとき、そのベースになっていた生命エネルギーは凝縮 を解かれ、一部は捕食者や腐敗菌などに取り込まれ、残りは7日ほどで徐々に拡散して、 いうなれば地球全体の生命エネルギーのプールに流れ込み、その一部となる。海の水が蒸 発して水蒸気となり、雲になって雨を降らし、川を流れて海に戻るようにね。新たに生ま れる生命は、そのプールから生命エネルギーを借りて誕生する。生命は、生きている間に 生命エネルギーを消費もするが、他の命を摂取することで補い、そして、量的には少ない ものの、他の形態のエネルギーから変換して増やしもする。そうやってさまざまに循環し ながら、徐々に生命のプールは拡がっていくんだ。しかし、そのプールは純粋な生命エネ ルギーのみを蓄え、生前の意識などは保存されない」 「じゃあ、立って歩いて血まで吐く霊って、何なんですか?」 「エネルギーを持って焼き付けられた記号だよ」 「記号?」 私はデザートも平らげ、コーヒーをお代わりした。充填されていく生命エネルギーが、冷 え切っていた体を温めていくようだ。 「コンピュータのプログラムは、何で書かれている?」 「え? プログラム? 何でって・・・数字とかアルファベットとか・・・?」 「数字とかアルファベットとかを総して、何ていう?」 「あ・・・記号です・・・ね」 「そう。記号の集合にすぎないプログラムなのに、コンピュータはそれを使って信じられ ないような作業をするよね。それと同じさ。霊とは空間や物質に刷り込まれた死者の念、 つまり生命エネルギー的プログラムとデータの集合体なんだよ」 「霊。プログラム。記号。・・・言語も記号ですよね。じゃあ、記号という点だけでいえ ば、僕が書いた日記と同じようなもの・・・」 「ふむ。そうだね」 「僕が書いた日記が僕そのものじゃないように、霊はそのプログラムを記した死者そのも のじゃないということですか」 「そう来たか。さすがだね。水代君は鋭いなあ。説明が楽でいい。ただし、そのプログラ ムは、本人の生命エネルギーを極限まで凝縮して刻みこんだ空間の凹みなんだ。水代君は 理学系といっていたから、ディラックの海という説を知っているだろう?」 「ええ。もちろんです。反物質の解釈ですよね。真空とはそれまで考えられていた、何も ない空間ではなく、負のエネルギーを持った粒子がぎっしり詰まった空間で、そこにエネ ルギーを当てれば正の粒子が飛び出し、飛び出した後の穴は、私達からは電荷が逆の粒子 に見える。それが反物質で、電子と陽電子の対発生の仕組みだとか。後にファインマンが 別の解釈をして、反物質の粒子は時間を逆行するとして、ディラックの海を想定しないで も説明できるようにしたと聞いてます」 「ディラックの海とファインマンの解釈の、どちらが科学的に正しいのかは今後の課題と して科学者に任せるが、ディラックの海の概念が、霊が空間に刻印された凹み、つまり負 のエネルギーであるというイメージの補助にはなるだろう」 「うーん。なんとなく・・・」 「そうやって物質や空間に刻印された負のエネルギーのプログラムが、霊とか念とか呪と いうものの正体ということになる。当然そのエネルギー如何によっては、刻印できる量が 変わってくるわけで、存在の密な霊や希薄な霊といった区別も生まれてくる。刻印の量が 膨大なものになれば、本人の脳神経シナプスの接続具合、つまり意識や記憶のプログラム までそっくり転写できるから、そこまでいけば一概に単なるできの悪い模造品とも呼べな くなるだろうね。私とまったく同じ量と質の記憶と意識を持つ転写体があったとして、そ れはもうひとりの私ではないのか。・・・哲学の問題だ。その答えは私も知らない。ただ、 一般的な霊は、さっきの女の子達もそうだけれど、そこまで総合的包括的なプログラムで はない。生前のいくつかの記憶を破片として持ってはいるが、ほとんどが死の直前の意識 だけを切り取って刻印された存在だ。だから、君の視た霊は、死者そのものじゃないとい えるのさ」 「ふう。そんな話は初めて聞きました。なるほど・・・うーん、考えさせられます。しか し、そのプログラムが何で目に見えちゃうんでしょう?」 「刻印の量とは別に、刻印の深さという要素も重要で、それはエネルギーの強さとなって 表れる。これもコンピュータに例えて話すと、パソコンを買ってプログラムをインストー ルし、電源を入れて起動しても、ディスプレイがなければ何の機能も発揮できないただの 箱というわけだろ。自前の肉体という表示装置を失った霊プログラムにとって、ディスプ レイに当たるのが他人の意識なんだな。負の生命エネルギーの働きは、物理的な次元の裏 を伝わるから、光や振動や分子の動きとは違い、感覚器を通さず、脳の視床という部位に、 何というのかな、次元の裏から作用する。詳しい原理の解明は、2000年後くらいの科 学者に任せるとして、伝えるためには相当なエネルギーがいるし、伝えられたディスプレ イの方の受信部の性能が悪ければ、これまた相当な強度の信号が必要となる。俗にいう霊 感のない君がさっきは視認できたということは、よほど強力な負の力があの女性達を死に 導き、そのエネルギーによって彼女達の死念もまた、あの場に強く焼き付けられたためと 考えられる。もうひとつ、君自身も体内に限界まで霊を溜め込んで、その影響で受信装置 が鋭敏化し始めている、という面もあるだろうね」 「視床ですか・・・。視力の視に床って書く脳の部位ですよね。うーん。それにしてもあ れほど鮮明な映像を送れるなんて。パソコンなんて、平面の動画ですらまだやっとという レベルなのに。霊の伝送量ってすごいですよね。リアルタイムで立体映像だもんなあ。霊 を記述している記号をパソコンのプログラム言語に使ったら、画期的なパソコンができそ うですね」 「いやいや、そうじゃないよ。その記号に対応した『真言』という音素があって、それで 霊のプログラムに干渉することができるんだが、それほど複雑なものじゃない。映像なん て伝えられないよ。伝わってくるのは意味の塊としての記号にすぎないのさ。電子メール レベルだね。メールで記述された人物像を読んで、自分なりに想像する過程に似てるかな。 例えば、『女』『黒髪』『長い』『白いブラウス』『血塗れ』『立っている』などなど。 極端にいうとそれくらいシンプルなものさ。しかし、伝えられた視床は、与えられた記号 情報に適合する映像記憶を自身の大脳とのやりとりで引っぱり出し、自動的に像を構成し て、それを感覚情報に付加するわけだ。で、リアルな映像に視えるというわけ」 「じゃあ、さっきのあの女の人達は、あの霊は、僕が勝手に想像・・・じゃないな・・・ えーと・・・モンタージュしたものなんですか? ということは、瀬那さんの見ていた女 の人と、僕の見ていた女の人は違う姿だったってことになりますね」 「そうだよ。もちろん伝えられる情報の量と質によるけどね。『白いブラウスを着て髪の 長い血を吐く女』という情報しか伝わらなかったら、君の視るものと私の視るものは大き く違っているだろうね。霊の表現能力にもよる。幼児並みの表現能力しかない霊と、作家 並みの表現能力の霊が同じ記号数で表現したとしたら、当然作家の霊の方が上手な像を結 ばせるだろう。実際はそれなりの情報量が伝えられるから、細部にならなければ差異は見 つからないだろうな。同じレベルの技術を持つふたりの画家が、さっきの女性達の似顔絵 を描いたら、ほとんど同じ絵ができてくるだろう」 「うーん。なんとも・・・。あの女性達を操って、自殺・・・いや殺した元凶って・・・ 他にもエレベータでも3人も殺してるし・・・なのに本体は隠れて、瀬那さんでもすぐに はわからなかったんですよね。そいつってもの凄く狡猾でパワフルなプログラムなんです ね。かなり危険なんじゃありませんか、ここって?」 「危険であることは否定しないよ。でも、狡猾とはいえないな。単純なプログラムさ」 「単純? だって・・・」 その時、テーブルの上の携帯が鳴り出した。水代がびくっと身体を引攣らせる。私は笑っ て携帯を取り上げた。 「はい。瀬那です」 『恭ちゃん。無事だったのね。心配してたの。死体が見つかったって聞いて。大丈夫なの? ママも心配してるのよ。あの男の子は一緒なんでしょ。そっちにも気をつかってたら大変 でしょう。私が行って手伝うわよ。ね。いいでしょ。私だって依代の素養はあるんだから。 役に立つわよ。ね。ね』 不和美加だった。私は携帯を耳から30センチ離して聞いた。口を挟むタイミングもない。 一通り喋らせてから、不和美加の息切れを待って、ようやく話ができた。 「ダメ。そこで待っていなさい。君まで来るとややこしくなる。水代君は大丈夫だよ。役 に立ってくれてる。これから、元凶を調べに入る。携帯は切ってしまうからね。水代君も いるんだから、無理はしないよ。終わったらルナティックに電話するから、ママとおとな しく待ってなさい。いいね」 まだ何かいいたそうにしている不和美加を無視して、接続を切った。切ると同時に新たな 着信が入った。馬越からだった。 『馬越です。美術センターには、何とか調整してもらいました。美術棟の第五倉庫区画は、 7時には封鎖します。第五倉庫区画とスタジオ棟を繋ぐ連絡通路も封鎖させます。しかし、 収録の都合もありまして、できれば9時までには調査を終わらせていただきたいというこ とで。なにとぞよろしくお願いいたします』 「わかりました。無理をいって申し訳ありません。では」 通話を切る。時刻表示を確認すると6時45分。あと15分だ。私は水代に向き合った。 「さて。話の途中だったけど、間もなく準備ができるそうだ。ちょうどさっき、危険の話 をしていたよね。今回の一連の事件の元凶は、思った以上に手強そうだ。さっきのトイレ の女の子達が君に視えたことといい、エレベータの箱が着く前に扉を開けるなどと、精神 的な作用だけでなく物理的な作用にまで及んでいたことから見ても、かなりなポテンシャ ルを持った相手だ。そういうわけで、正直にいっておくと、君の安全は100%保証でき ない。だから、君はここで待っていた方がいい」 「え? 僕は・・・足手纏いですか?」 「いやいや。そうじゃない。私としては君が手伝ってくれた方が助かるよ。ただ、危険も あるということだ。私には君を危険に晒す権利はないからね」 「危険って・・・具体的にはどんな危険なんでしょうか?」 「うーん。ケースバイケースだから一概にはいえないが・・・。一番有り得るのは、精神 的なものだね。君自身の心理状態によるものと、相手からの精神攻撃によるものがある。 君自身の心理状態によるものは、恐怖による錯乱だ。慌てて逃げようとして転んだりぶつ かったりで怪我をするケース。こればっかりは、君自身の強い意志で耐えるしかない。要 は君が気をしっかり持っていられるかどうかだ。君はさっきのトイレで、充分強さを証明 したから大丈夫だと思うが」 「強さですか? だって、僕・・・漏らしちゃって・・・」 「私だって、漏らしたことくらい何度もあるさ。弱い人なら、あの時点で失神したり、パ ニックに襲われて闇雲に逃げようとしたり、錯乱して暴れ出したりする。君は耐え切った んだから、強いよ。その点は私が保証する」 「うーん。とても自分が強いなんて思えませんけど。でも、変態モードじゃない瀬那さん がそうおっしゃってくれているんだから、信じることにします」 「ははは。その素直さと柔軟さが君の強さだよ。変態モードでも信用してほしいものだが。 君が錯乱する可能性は低いとしても、往々にして相手は直接的・間接的に精神を攻撃して くる。直接的な精神攻撃というのは、いうなれば催眠術にかけられるようなもの、と思え ばいいかな。精神的な隙をついたり、あるいは力押しで直接的に誤った情報を送り込み幻 惑してくる。惑わし、動揺したり錯乱したりさせようとしてね。その手に乗って精神の力 が弱まると、最悪の場合、憑依されてしまう可能性がある。そうでなくとも、催眠術的に 操られ、自傷・自殺を計ったり、他の人間に危害を加えるケースもある。しかしながら、 それに関して、水代君はほぼ心配する必要はないだろう。何故って、君はバリアースーツ を着ているからね。そのスーツは、直接的な精神攻撃や憑依に対して絶大な防御力を発揮 する。今は頭が露出しているから不完全だが、フル装備すれば、精神攻撃はかなりな部分 シャットアウトできるし、憑依までされることはまずない」 「それを聞いて安心しました」 「いや、もうひとつ、間接的な攻撃がある。これは地雷を仕掛けるというか、罠を事前に 仕掛けるようにして、例えば物や場所に『呪』を仕掛けておく方法で、霊師にとっても厄 介なものなんだ。当然カモフラージュされているから、細心の注意を払わなければ看破で きないし、うっかり発動させるとかなり幻惑される。仕掛けはシンプルで、本体から直接 来るものでもなく、害意がないだけにね。一例を挙げると、例えば窓という認識を、出口 という認識に置き換えるだけ。そんな単純なものでも、逃げようとしている時には出口と 勘違いして窓から飛び出すことになってしまう。で、墜落死もありえるわけだ。ただ、今 回の相手はそこまで頭のいい奴ではないから、罠はないと思うが・・・これも100%保 証できない」 「瀬那さんには、相手の想像がついているみたいですね。いったいどんな奴なんですか?」 「・・・単なる『呪』、呪いの一種だと思うよ」 「呪ですか。それって霊じゃないんですか?」 「似てはいても結構違いがある。呪は生きた人間が意志の力で刻んだ、害意だけのプログ ラムだ。だから特化されている。シンプルだから、霊ほど知恵も意識の断片もない。ただ ひたすら近づく者、周りの者を害し、そのことで生じた負のエネルギーを溜め込んで強力 になっていくプログラムさ」 「それって・・・まるで、コンピュータ・ウイルスにそっくりですね」 「ふむ。まさに、そうだね。それが今回の相手だと思う。だから浄化できないし、封印す るか破壊するしかない」 「なるほど・・・だから単純な相手とおっしゃったんですね」 「そう、単純だ。だけど話せばわかる霊とは違って、最初っから暴力的なことも確かだ。 物理的な作用も可能な相手だから、何か物を飛ばして怪我させようとするかもしれないし ね。それにどのくらいの力を持った相手なのかは、実際に行ってみなければ私にもわから ない。想定以上に強くなっている可能性もある。安全を考えるなら、水代君はここに残っ た方がいいのも確かだ」 水代は、しばし考えていた。手袋を噛んでいる。そしておもむろに、私を真っ正面から見 据えた。 「いえ、もし瀬那さんの足手纏いでないんなら、一緒に行きます。さっきのトイレでのこ とは・・・何だかまだ現実味がなくって。もう一度、この目で確かめたいんです。それと ・・・さっきの女の子達。僕の視たままなら、あまりにも可哀想でした。僕には何もして あげられなかったけど・・・せめて、彼女達を殺した相手の末期を見届けたいと思います。 できることがあったら、僕にも何か協力させてください」 「うーん。やっぱりね。君ならそういうと思ったよ。今度は浄霊じゃなく除霊になる。つ まりは力対力の勝負ということだ。ガチンコ勝負ともいう。本音をいえば、両手を空けて おきたいから、君が鞄を持ってくれると助かるんだ」 「はい。お手伝いします」 「それと、一緒に来るなら、君の眉間のチャクラを応急的に開かせてほしい」 「チャクラ・・・ですか。それって・・・」 「眉間のチャクラは視る力を司る場所だ。解剖学的にいうと、さっきから話に出てくる脳 の視床という部位を指す。視床は脳のほぼ中央に位置していて、つまりは眉間の奥だね。 嗅覚以外のあらゆる感覚情報を、大脳皮質に送る中継基地のような存在といわれている。 視床の中に特殊核と呼ばれる核があって、それが受信機のような働きをしているんだ。特 殊核を活性化させることで、受信機の性能を上げる。つまり、霊的な情報を視覚的に感知 できるようになる。マイナスでもプラスでも、生命エネルギーの流れを視ることができる。 つまりは霊を視ることができるし、相手や私の発する気の流れも視ることができる。何が 起きているかがわからないと危険だしね。それに、君にはバリアースーツの頭部マスクも 着けてもらわなければならないから、受信機能を上げておかないとマスクに妨害されてほ とんど受信できなくなってしまう」 「はい。・・・え? 頭部マスクって・・・頭に被るんですか? えええ」 とほほ顔の水代を急かして、3階に降り、スタジオ棟から美術棟に繋がる連絡通路に向か った。軽自動車がすれ違えるほどの幅があるいちばん北側の連絡通路には、巨大な防火扉 が閉められ、『点検作業につき立ち入り禁止』の張り紙がしてあった。潜り戸を開けて通 路に入る。一応、あたりの様子を窺ってみたが、人の気配もそれ以外の気配も感じられな かった。 「よしと。人払いは完璧にできているようだ。ここで準備しよう。水代君はここで服を脱 いでしまいなさい。靴も靴下も全部ね」 「え、あ、ええ? ゴムスーツ姿を晒すんですか・・・」 私は鞄を床に置き、膝を突く。 「晒すんじゃなくて、消すのさ。今から相手する呪にとって、君のスーツは隠れ蓑とおな じで、まったく見えない。だから君に直接危険が及ぶ可能性が低くなるだろ。それをわざ わざ服を着て、ここにいるぞって宣伝することもない。2時間しかないんだから・・・」 「わかってます。もうどうにでもなれって覚悟してますから四の五のいいません」 水代は覚悟通り、さっさと服を脱ぎ始めた。通路には天窓はあったがサイドの窓はないか ら、脱ぎやすかったのだろう。私は鞄から必要な物を出して、マスクとマウスピースと首 輪を水代に手渡した。 「まずマウスピースを口に入れてしっかり噛みしめる。それからこのラバーマスクを被っ て、最後に首輪を嵌める。マスクは後ろがジッパーになっていて、髪の毛も完全に中に入 れる。慣れないと難しいから私も手伝うよ」 「言葉も話せないで、首輪で引かれるなんて、まるで犬ですね」 「なかなか変態的でいいだろ。ほんとうなら四つん這いで歩かせたいんだが・・・君を納 得させる言い訳が思い浮かばなかった」 「って、もしかしてこんな変態的な格好は、じつは必要なくて、瀬那さんの変態趣味を満 足させるために騙されてるってことですか?」 「ははは。冗談だよ。冗談。怒った顔も可愛いねえ君は。ついからかいたくなってしまう。 ゴメンゴメン。冗談はさておき、マスクをすればどうせ何をいってもよくわからなくなる。 これも私の妻用に誂えたものだから、君の頭にはややキツイだろう。長時間キツイマスク をかぶると、まず顎が痛み出す。そうならないようにしてくれるマウスピースさ。それに、 これを噛んでいれば、不用意な悲鳴を上げて君の存在を相手にばらす危険性も減るしね」 「じゃあ、この屈辱的な首輪も、変態以外の理由があるっていうんですか?」 「もちろんさ。この首輪から伸びている引き綱をよく見てごらん。中の黒い芯が見えるだ ろう。これはね、人間の髪の毛さ。切れ目のない長さ4メートルの髪の毛の束だよ。希少 品だ。これは生体エネルギーを伝導させるコードでね。首輪の内側で君の皮膚に直に触れ、 反対側は私のベルトに繋いで、導線を私の身体に直に貼りつける。すると私の皮膚と君の 皮膚が髪の毛を通して直に繋がることになる。これで何ができるかといえば、私は君が強 く念じた言葉を心の声として聞くことができるのさ。便利だろ。その逆も可能だが、その ためには君の視床を刺激して一時的に感度を上げないとね。マウスピースを咥えたら、マ スクと首輪をする前に、床にひざまずいてくれないか」 「は・・・はい。痛いんですか、その視床の刺激って?」 「痛みは・・・注射針を刺すくらいなものだろうが、結構目眩がするはず。一過性のもの だから心配しなくてもいい。吐きそうになったら吐いてもいいよ」 「注射針っていったって、腕じゃなく脳の奥深く・・・いえ、もう、性根を据えました」 水代はマウスピースをかぷりと口に押し込み、ギリと噛みしめた。なかなかキカン気だが、 女顔なだけに、勇ましいというよりは凛々しい表情だ。こんな事、本人にいったら気を悪 くするだろうと黙っていた。水代は、まるでフェラチオを始めるかのように、私の目前に ひざまずく。 「目をつぶって、リラックスしなさい。手を開いて、肩の力を抜いて。そうそう」 私は、タンカレー31を詰め替えたブッシュマスターのステンレス製携帯用フラスコを、 ひとつ取り出した。キャップを空けて一気に飲み干す。空になったフラスコを傾け、中の 霊酒の滴を一滴、薬指に垂らす。その指で水代の眉間を濡らし、さらにもう2回繰り返し て水代の両のこめかみをも濡らした。脚を開いて水代の前にしっかりと立ち、手を合わせ て気を腕に通す。指先が、焼けるほど熱く感じられるようになったところで、まず両手の 親指を揃えて水代の眉間に押し当て、額を包むようにして残りの指先を彼のこめかみに当 てた。そしてこめかみを押さえた左右の指の間に、探針となる細く弱い気を走らせて、水 代の脳の視床を探る。気が吸い込まれていくような感触があって、お目当ての特殊核を探 り当てたことを知る。思った通り常人の3倍はありそうな大きな核だった。その中心を狙 って、親指から、最初は弱く、次第に強めて気を送り込む。指を押しつけるように圧迫し ながら、脳を揉むようにリズミカルに気を波打たせ、神経を活性化してゆくと、ある瞬間 にスコンと抜けるような感覚がして、親指から送り込んだ気がこめかみに抜けてくるよう になる。開通だ。それ以上余計な気の流入で水代の内の霊を刺激しないよう、私は素早く 手を離す。 「正座しなさい。姿勢は崩さないように。崩すと返って気分が悪くなる。ゆっくり深呼吸 して。腹から息を出すように。吐き気は大丈夫そうだね。頭の中でゆっくり10数えたら 目を開けていいよ」 しばらくして、水代が目を開いた。波が引くように気分の悪さは消えているはず。あたり をきょろきょろ見回している。 「今はまだ何も変わって見えないだろう。倉庫に入ったらたっぷり視られるから。さて、 じゃあマスクを被るよ。最初に顔面を入れるのは自分でやりなさい。鼻の穴の部分に突起 があるから、それを鼻の穴に収めて。それが呼吸口だから。もし途中で息ができなくなっ たりしたら、床を3回タップして知らせなさい」 水代が肯き、両手に持ったゴムマスクの割れ目の中に顔を押し込んでいく。しばらく顔面 にフィットさせようともぞもぞさせていたが、呼吸管がぴったり入ったのだろう、手の平 で押さえつけるように持ち方を変えた。それを確認してから、私は水代のポニーテールを 絞っているヘアゴムを外し、髪を渦巻き状に丸めて片手で押さえ込む。マスクの割れ目の 一方の端を引っぱっり、もう一方の端も引っぱり、割れ目をできるだけ細くしてから、ゆ っくりとジッパーを下ろしていった。髪の毛を噛まないように注意しながら下まで下げき ると、水代の頭は真っ赤な団子に成り下がった。でこぼこした肉団子の顎の下に手をかざ し、そこのふたつの小穴から間違いなく息が抜けていることを確認する。うなじでジッパ ーのつまみを下に倒し、ボディスーツの首の付け根にある小さなポッチに嵌め込んだ。こ れでマスクがずれることもない。ボディスーツとマスクの両方で、うなじの真ん中にある 直径3ミリほどの穴がぴったり重なり、そこから水代の首の皮膚が覗いている。 「よしいいよ。それほどキツクはないようでよかった。呼吸は少し息苦しい感じがするだ ろうけど、問題になるレベルではなさそうだね」 私がそういうと、水代は手を挙げ、目の部分を指差した。そこに穴はない。水代の可愛い 顔は、今や真っ赤な凹凸だけの、変態のっぺらぼうだった。 「はいはい。わかってるよ。元々このマスクは完全封印用に使う物だから、目の穴はない んだ。首輪をしたらハサミで目の部分だけ穴を空けるから、それまでは我慢してなさい」 私はおとなしくうなだれるように待つ水代の姿を、一歩下がって眺めた。これから悪霊退 治に出かける矢先に不謹慎ながら、ゴムに封じ込められて真っ赤な肉の塊となり、個性を 喪くしてどこか女っぽいフォルムだけの存在になった水代に、股間が疼いた。3年ぶりの 疼きだった。 いつまでも観賞していたい風情だったが、そうもいかない。私は首輪を手に、水代の後ろ へ回った。装飾はないが、まさに犬の首輪じみた厚手のベルトを、水代の細い首に回した。 首輪の中の髪の毛導線の露出部がうなじの穴にぴったり密着するよう押しつけながら、ず れないよう弛みがないように喉仏の前で締め上げる。ゴムとゴムが密着してしまえば、摩 擦でまず、ずれることなどありえないが、万一の場合も考えて首輪の内側には薄く接着剤 が塗りつけてある。しばらく動かないように水代に指示し、私は霊酒ガンのセットをした。 充分接着が乾いた頃を見計らって、首輪を揺すってみたがビクともしない。水代が何かい いたげにしていたが、まだ首輪の引き綱を私に接続していないから、何をいいたいのかわ からない。私はあっさり無視して、ハサミを手に水代の前に座り込む。マスクの目の部分 をつまみ上げ、できるだけ小さな穴を空けるようにハサミを入れた。ジョリッという音と ともに小さなゴムのカケラが切り取られ、手を離すとゴムの張力で穴が拡がって、水代の 目がかろうじて覗くくらいの穴が開いた。もう一方の目も、同じ大きさの穴になるよう慎 重にハサミを入れる。パチパチと瞬きを繰り返している水代の目が愛らしい。私は、身体 を引いて出来映えを確かめた。 「ひとつ50万円の封印マスクを、欠陥品にしてしまったなあ。しかし、穴の大きさは、 同じ大きさだ。見た目ではわからないくらいな。我ながらいい出来。さあ、立って」 私は水代に手を貸して立たせた。首輪の引き綱を偶然そうなったかのようにひっかけ、水 代に犬気分を味合わせてから、私はズボンのベルトの背骨の部分に綱の先を固定した。シ ャツを引っぱり出して垂らし、先端から2センチほどはみ出している髪の毛の導線を腰骨 の上にバンドエイドで貼りつける。 「よし、これで水代君の考えも読めるよ。ただし、読めるのは強く念じた言葉だけだ。長 い文章は駄目。単語だけ。じゃあ、試してみよう。何か単語を念じて。だらだら念じ続け るより、一瞬のパワーを込めてくれた方がいい」 水代が気張るように身を固くした。 『変態』 「ははは。変態か」 私が即座に読み取るとびっくりしたようだ。ここまでやっておきながらも、どこか信じて いなかったのだろう。 「もっと連続して単語を並べて」 『犬・気分・恥・即・除霊・開始・願い』 「うまいなあ。君はほんとうに頭がいい。こんな状況で、あれだけの説明で、完全に要領 をつかんでいるとはね。犬気分で恥ずかしいから即除霊を始めてほしいっていうわけだ。 その調子でいってくれれば最高だな。では、君に武器をひとつ渡しておく」 私はさっきセットした霊酒ガンを水代に手渡した。 「霊酒ガンとでも命名しようかな」 『単・水鉄砲・玩具?』 「単なる水鉄砲のオモチャとは失礼な。これはかのパウロ3世も御用達のエクソシスト用 武器だぞ。というのは半分冗談。実際は、ガレのお洒落な香水瓶に入っているそうだがね。 我々霊師は霊酒をふりまくより飲むことで使う。これは未成年で酒の飲めない水代君用に 水鉄砲を急遽改造して造った物だから、オモチャはオモチャだけどね。子供の水鉄砲に酒 の携帯用フラスコを弾倉として取り付けたものだ。中にエアガン用の空気ボンベが仕込ん であるから、いちいちポンピングしなくてもフラスコの中の霊酒を噴射できる。中の霊酒 は本物の一級品だ。だいたいフラスコ1ボトルで30回くらい撃てる。鞄の中にあと2ボ トル入っているから、弾切れしたらボトルを捻って外して新しいのを付け替えるといい。 先端のノズルが回るようになっていて、噴射形態が2タイプ選べる。10メートルくらい 飛ぶ噴射タイプと、3メーターほどの至近距離にしか拡がらないが広範囲にばらまける霧 吹きタイプ。これは君の護身用で、敵が偶然近くに寄ってきてしまった場合などの非常時 に使うものだから、通常は狙いのいらない霧吹きタイプにしておいた方がいい。もうすで にセットしてある。一応、陰陽道系の封印式を混ぜた塗料で塗ってあるから、これも霊的 には不可視とまではいかないものの、見えづらいようになっている」 『へえ・おみそれ・失礼』 「鞄も封印処理が施されてるから、見えないだろう。つまり、その姿の君は、霊的には透 明人間というわけだ。人から見ると変態マゾだけどね。くくく。いや、失礼。その、なん だ・・・攻撃は私に集中するだろうから、危険回避の意味で、君は首の引き綱の長さぎり ぎりまで離れて付いてくること。引き綱にはある程度の伸縮性があるとはいえ、あまりピ ンと張ってしまうと切れることもあるし、私の動きの邪魔になっても困るから、適度に弛 むくらいの距離を維持してほしい。いろいろ仕掛けられたらよそ見もしたくなるだろうが、 できるだけ私の動きを注意して見ていて、一緒に動くようにすること。バリアースーツは 完璧だけど、目の部分に穴を空けてしまったので、その分不完全であることも忘れないよ うに。できるだけ、目立たず、騒がず、冷静に。いいかな?」 『了解』 水代は鞄のベルトを袈裟懸けに肩にかけ、手に真っ赤な水鉄砲をハリウッド式に掲げてか ら、軍隊式に敬礼した。なにせゴム人形だから、珍妙で愉快な図だった。私が歩き出すと、 一緒に歩き出そうとして、ぎりぎりまで離れて歩くよういわれたことを思い出したらしく、 たたらを踏んでいた。その直後に伸びきった引き綱に首を引っぱられ、情けなく前のめり になって歩き出した。じつに面白い。 「さあ、呪い退治だ」 変態コンビは連絡通路を奥へ向かった。 ☆彡8. 区画は完全に防火シャッターで封鎖されていた。人犬を連れて連絡通路を渡り、行き着い た防火シャッターのくぐり戸を抜けると、南に伸びる広い通路の北端に出た。南は50メ ートルほどでやはり防火シャッターにより封じられている。静かだった。目の前に天井ま である巨大な観音開きの鋼鉄製ドアがあり、そこに第5倉庫と記されていた。水代の引き 綱から怯みが伝わってくる。私はといえば、さっき呷ったタンカレーの聖酒が全身に周り、 血管と神経が清められていくのを感じている。その感覚を、引き綱を通して水代に伝えて やると、水代に驚きの感情が湧くのがわかった。私からの通信に慣れていなかったためだ。 頭の中に思念が流れ込む感覚は、侵入感が伴い、自分の中に他人が入り込むような錯覚が 生じるものだ。相手を好ましく思っていない場合は、脳にペニスを突き込まれたかのよう に感じてしまい、猛烈な拒絶反応が起きる場合もあるのだが、水代の心が揺れたのは純粋 に驚きの感情からだった。女子トイレでの一件で、人生をひっくり返すような体験をし、 私に対して信頼感と依存心が生まれている証拠だろう。 『逆に・伝達・可能・だと・いった・だろ』 と続いて言葉を伝えると、頭の中に他人の思念が閃く奇妙さに、しきりに感心している。 もう一度、清めの感覚を送ると、今度は素直にその感覚に身を委ねたようだった。水代の 怯みが鎮まっていく。私は第五倉庫の扉に耳をつけた。中の気配を探る。空気が帯電して いるかのような緊張感が伝わってくる。ここに間違いなさそうだ。 『瀬那・手・光』 水代が言葉を送ってくる。漢字を念じる方が楽なことに気がついたのか、漢文調だ。頭の 中で言葉を強く念じると、あるレベルでふっと何かが抜け出すような感覚が生じる。それ が送られたという証なのだが、教えられてもいないのに、水代は体感的にそのあたりのコ ツをつかんだようだ。送られてくる単語の間隔が一気に短く、リズミカルになっている。 「見えたか。これが気だよ。体内で循環させて増幅した気を、手に集めている。これが私 の武器さ」 私は扉のノブに手をかけ、慎重に引き下げた。ゴコンという手応えとともに、扉が手前に 動く。軋ませないように、ゆっくりと扉を開けていく。扉が開ききり、体育館ほどもある 巨大倉庫の中が窺える。第5倉庫は小道具類を中心に収められている倉庫だから、天井近 くまである高い金属棚が何十と平行に並んでいる。それが天井からの光を遮って、薄暗い 印象を与えている。換気はされているはずなのに、カビ臭い空気がゆるゆると流れ出して くる。他に動くものはない。 私は一歩を踏み出した。身体が何かの膜を通り抜けたような感じがする。これは・・・結 界だ。私は驚き、より慎重にもう一歩進んだ。たかが単なる呪のくせに、結界まで張れる とは。相当な術者の造り上げた呪だということだ。結界の中では心霊力が増幅される。私 の持つさまざまな感覚と力が強化されるが、相手もまた強化されるということだ。 左手の壁は一面の棚。正面は奥までの広い通路になっている。右手に背中合わせでワンセ ットになった厚みのある棚が、手前から奥まで5セット、平行に立ち並んでいる。棚と棚 の間が大きな台車も楽に通れるくらい広く空けられ、通路となっていた。他の倉庫は区画 の両端に出入り口が設けられていたが、この第5倉庫だけは造築の際の不備から、今私達 が入った端のひとつしかない。非常口すらないのだ。消防法違反のような気がする。消防 署の指導は受けていないのだろうか。おかげで奥へ行けば行くほど、唯一の逃げ道から遠 くなってしまう。危険度が2割増になるということだ。 いまさら消防署に掛け合っても出入り口の数が増えるわけでもないし、私が文句をいう筋 合いでもないので、覚悟して先へ進むことにした。右へ向かい、棚の列に入る。奥へ、南 方向へと進む。私に続いて倉庫に入った水代が、後ろでせわしなくあたりを見回している のがわかる。見回せば、私の身長のゆうに倍はある棚に、古ぼけ所々破れかけた段ボール 箱が乱雑に収められ、ぞんざいに詰め込まれているのだろう、箱の上蓋が閉じきらずに、 羽付の海賊帽やら宇宙服の一部など、あまり目にすることのない特殊な衣装や小道具の一 部がはみ出している。 棚ふたつ分進むと、道を塞いで直交するように置かれた別の棚に行き当たり、私達は迂回 しなくてはならなかった。右手に折れ、通路側の壁方向を目指す。まるで迷路のような場 所だ。天井の乏しい明かりと棚との角度によって落ちる影が濃い。私はできるだけ明かり の下を選んで進んだ。水代もビビリながらではあったが、肩にたすき掛けした鞄を、揺ら して音を立てないように抑え、霊酒ガンを構えながら、いわれた通りに距離を置いてつい てくる。 『カビ・臭・強』 棚がのしかかってくるような不安、影や暗がりに何かが潜んでいそうな怖れによく耐えて いたが、静寂と沈黙には耐えられなかったようだ。確かに進むにつれ、カビ臭さが強まっ ていた。空気の湿度も増しているようだ。梅雨時ならまだしも、まもなく冬だというのに。 美術倉庫なのだから換気には気を遣っているはず。と考え合わせると、霊的現象の可能性 大、ということになる。 「有機的ということか。この呪の核には、生き物が使われている可能性が高いね」 『声・出・大丈夫・?』 「どうせもう、相手には感知されているさ。一応、気を漏らさないように声を出している けど、こちらの手の内や力量を不用意に教えないようにという、念のための用心にすぎな い。湿気やカビの臭いとは別に、どことなく気が重くなるような感じはしていないかい?」 『有・漠然・感・心理・攻撃・?』 「いや、この倉庫内全体が、相手の張った結界に支配されている。マイナスエネルギーの 結界だから、生きている我々は生気を吸い取られて気分が重くなるんだよ」 私達は棚の端に辿り着いた。棚は、端が壁に接するように置かれていて、通り道がない。 仕方なく引き返し、棚3つ分進むと、棚と棚の間が開きそこが狭い通路になっているよう だ。私は棚の角に引き綱を引っかけてしまわないように、水代が近づくのを待ち、その間、 角から奥の様子を窺う。第5倉庫は南北に細長い作りで、私達は北の端にある扉から入り、 南の奥を目指して進んでいるのだが、奥に行くほど暗くなっているように見える。天井の 蛍光管が何本か切れ、その数が奥に行くほど多くなっている。それだけでなく、奥に満ち た障気が光さえ不活性化しているのだろう。 細長い倉庫に平行に棚が立ち並び、所々直交する棚によって区切りが設けられているよう だ。見通しが悪く、不利だ。私もブランクが長く、自分の力がどこまで錆びついてしまっ たのか自信がない。水代には素振りも見せないが、内心は緊張していた。これはゲームで はない。力に負ければ、私だって憑依されてしまうこともありえる。そうなれば、私だけ でなく水代の命にまで危険が及ぶ。背中に嫌な汗がじんわり滲んでいた。 私達は仕切の棚の端を回り、壁に沿って並ぶ棚の間を奥へ進んだ。私も緊張していたが、 水代は限界まで膨らんだ風船のようだ。心臓の鼓動が生命波のパルスとなって伝わってく る。私と距離を取るのが心細いらしく、だんだん距離が縮まっていた。棚3つ分が聳え立 ち、その先に再び仕切の棚が見える。また迂回かと考えながら、ちょうど通路の中ほどを 過ぎようとした時だった。何か目に見えない気配が動いた。私は凍りつくように足を止め た。半眼になって気配を窺おうと気を集中させる。しかし、気配を探る間もなく、背後か らはっきりと音が聞こえた。水代が上げた内心の悲鳴がビシビシと伝わってくる。 『音・音・後・何・何?』 『落ち・着いて』 声でいうより、一緒に沈静のイメージも送れる有線で伝える。水代が、はっと顔を上げ、 私の方を見て肯く。その間も音は続いていた。静まりかえった倉庫内ですら、かろうじて 聞き取れるほど小さな音だったが、耳にこびりつく。紙屑が転がるような音だった。かさ かさかさかさ。ゴキブリが走る音のようにも聞こえるが、そうだとしたら巨大なゴキブリ だろう。ネズミかもしれない。しかし、これほどの結界の中に、気配に敏感なネズミやゴ キブリが入ってくるわけもない。 音は、今通り過ぎて来た棚の向こう側を、私達に向かってゆっくり近づいてくるようだ。 がさ、かさかさかさ、がささ。棚の段ボール箱の上を移動しているのだろうか。神経をく すぐられるようなもどかしさを感じさせる。そして・・・唐突に音が途絶えた。音が止ん だというのに、水代は後ろを振り返ったまま、必死で音の出所を見極めようとしている。 「無理に探そうとすると、相手の思うつぼだろう。探そうと意識を集中させると、見たい という欲求まで高めて、自分自身で幻像を造り上げてしまう。あるいは、相手の見せたい と思う印象を受け入れやすくなる」 背後から声をかけると、水代は頼りにすべき私より、自分の方が得体の知れない現象に近 いことに気がつき、へっぴりごしで後ずさりする。動揺がもろに伝わってくる。私がいっ たことを頭では理解しているのだろうが、どうにも音のした方向から目が離せないようだ。 私の肩に背中が触れると同時に、詰めていた息を漏らし、そそくさと私の背中に隠れる。 マスクの呼吸管は、管の厚み分、鼻の穴より直径が小さく、せわしない呼吸をするにはや や細い。呼気が管を擦過する音が聞こえる。そうとう息苦しそうだが、そのおかげで意識 が不気味な音から逸れてくれたようだ。 「もう聞こえないよ」 『消・音・?』 「落ち着いて。深呼吸しなさい。動揺させるのが目的なんだから。もし何か見えても、見 入っちゃだめだよ。気にしなければいいのさ。気にしすぎると術中に嵌る。自分は透明人 間なんだと、もう一度思い込むこと。いいね」 『了解・謝罪』 「謝ることはないさ。こんな場所であんな音。誰だって不安になる。得体が知れない分よ けいにね。正体を見極めようとするのは本能だから、気にするなといっても無理かもしれ ないが、気にしすぎないこと。もし何かが見えても見入らないことを心がけて。君は視線 にこもる生気を抑える訓練を受けていないから、真っ正面から見つめると敏感な相手の場 合、視線に混じる生気を辿られやすい。君はスーツを着ているからたいていは大丈夫だけ れど、視線を辿られて目に飛び込まれでもしたら・・・影響されるからね。できるだけ視 線の端で見て、それでも近くに来るようなら霊酒ガンをひと噴きしてやりなさい。目をつ ぶるのもいい。いいね。じゃあ、先へ進むよ」 私達は再び距離を取り、歩き始めた。倉庫を仕切る棚に突き当たって曲がり、棚の切れ目 を目指した。ひとつ目の棚の切れ目は、崩れ落ちた段ボールの箱で塞がれていた。積み重 なって潰れた段ボールの山に、セット用の装飾品や複製画の額縁などなど、溢れ出た雑多 な小道具がぶちまけられている。時計やら照明器具やらガラス製の物も多く、いくつかは 割れて、かけらの鋭い角に光を反射させている。危険すぎて、とても乗り越えることはで きない。私達そのまま先へ進んだ。その時、あの音がまた聞こえた。 『音・聴・尾行・来!』 かさ、こそ。がさ。かさかさ。今度はひとつではなかった。ふたつ。いや、みっつ。背後 からも、横からも、斜め前からも。音の移動と一緒に、障気がゆるゆると捻れるように流 れていく。しばらく足を止め、あたりを見回したが、棚にも通路にも動きはない。足を止 めると音も止んだ。私達が歩き出すと、音も聞こえ始める。がさがさ。かさかさ。とん。 たたた。私達と一定の距離を取り、ついてくるようだ。 『包囲・音・尾行・怖』 「体と精神の力を抜いて。適度に緊張し、同時に広く開放する。そう心がけるんだ。緊張 しすぎると咄嗟の動きが鈍くなる」 『了・了・解』 正体が知れないというのは、私にとっても不気味なものだ。慎重に進む。私はゆっくり大 きく呼吸し、体内を循環させている気をゆるやかに大きく回すよう心がけた。手に溜めた 気も、呼吸に合わせて膨張と縮小を繰り返す。結局、私達は反対側の壁にまで達してしま った。棚の端と壁の間に開きがある。棚の角を曲がり、一歩足を踏み入れたとたん、パン と音がして、あたりが一気に暗くなった。思わず天井を見上げると、わずか2本の蛍光管 を残して、他は全部消えている。ジ、ジ、ジ、ジ、ジ。その2本も、今にも消えそうなく らい光が震えていた。 『暗・怖・小便・漏』 この物理力。なのに、今その力を発現させた中心核は探知できなかった。巧妙だ。私は首 筋の毛がチリチリと逆立つのを感じた。これは、私の手に余るかもしれない。この棚の仕 切を回り込めば、倉庫の最奥だ。今なら引き返せる。私の心の奥で、引き返した方がいい という声が聞こえた。こめかみに汗が一筋伝う。目を上げると、先は闇に沈んでいた。た だの闇ではない。悪意を持った闇に。 「逃げ出したいかい」 私は自分に言い聞かせるように、水代に問うた。 『是非』 「私も逃げ出したいよ」 『既・手遅!!!』 塊のような恐怖が、引き綱を通って送り込まれてきた。私は振り返り、立ちつくす水代を 見た。一見して何の変わりもない、真っ赤な変態ゴム人形に見える。しかし、そのマスク の穴から覗く目は、今にも泣き出しそうで、必死に救いを求めていた。棒のように硬直し た水代の右肩に、何か白い物がひらひらと踊っている。もぞりと水代の肩の肉に指を食い 込ませ、背中側から這い登ってくる。それは、人の手首だった。手首から先はない。すっ ぱりと切断された手首だった。血の気のない五本の指を蠢かせ、まるで単体の生き物のよ うに這いずる手首。水代の左肩にも、もうひとつの手が現れた。そして頭の上にも。水代 は恐怖のあまり動くこともできず、救いと逃げ道を求めて目をグルグルと動かしている。 その目が私の頭上に向けられた時、眼球の動きが止まり、そして、まなじりが引き裂けそ うなほど大きく見開かれていった。 水代の視線は私の頭上に向けられている。自分の身体にたかる異物すら忘れて見入ってし まうものとは何なのか、私は彼の視線を追って天井を見上げた。靴底が見えた。そしてそ の上に、空中にぶら下がった作業衣の男が見て取れた。首に縄を食い込ませ、頭を45度 に傾けて、ゆらゆらと揺れている。紫色に膨れ上がった舌が巨大なナメクジのように吐き 出され、舌先が顎の下にまで届いていた。首が飴を引いたように伸びている。目玉がこぼ れそうなほど見開かれた目は、所々白目の血管が破裂していた。そしてだらんと垂れ下が った両腕には、手首から先がなく、作業衣の袖口は真っ赤に濡れていた。霊に特有のちら つきがない。だから、霊ではなく、実際の死体だとわかる。とても生きているはずもない と思えたのに、その目がゆっくりと動いて私を見つめた。 「水代君。目を逸らして。霊酒を撒きなさい」 そう声をかけても水代は反応しない。魅入られているのだ。その視線には絶叫に似たエネ ルギーがこもっているだろう。それを検知されたようだ。死体の眼球がずりずりと動いて、 視線が私を離れ、ゆっくりと水代の方に向こうとしている。かなりヤバそうな気配だった。 私は咄嗟に引き綱を引いた。水代がよろけて、床に手と膝を突いた。私に晒されたその背 中には、さらに3つの動く手首が取り憑いていた。四つん這いになった衝撃で、水代に付 いていた手首がバラバラとあたりに振りまかれる。そのひとつが水代の目の前に落ちた。 『手・手・手』 それは手指を器用に動かして床を這い、物陰へ逃げ込もうとする。私は素早く3歩足を運 んで、犬になっている水代の前の床に手を突き、気の玉をゆるりと床に押し流した。後ろ で重いものが落ちて潰れる音と同時だった。床に突いた私の手の平を中心に、赤みがかっ た光の円が拡がり、波紋のような同心円を描いて一気に拡がった。水代にも見えただろう。 あたりが一瞬、フラッシュを焚いたように明るく感じたはずだ。床が波打って見えたかも しれない。わらわらと逃げようとしている手首達に波紋が到達すると、紙に描いた絵を丸 めるように、くしゃっと手首が消えた。最初からそんな物など存在しないように。 私の背後でヘドロが泡立つような音と臭いが弾け、振り返ると、床に落ちた首吊り死体が 全身を波打たせていた。穴という穴から腐敗ガスを噴き出していたのだ。不覚にも、その 悪臭の塊を、私は吸い込んでしまった。鼻を殴りつけられたような腐臭に息が詰まり、胃 が引攣る。その時、死体でも見たのだろう、水代が心の悲鳴を漏らしてくれたおかげで、 私に水代の存在とその状況を思い出させてくれた。口が塞がれた状態で、こんな臭いを嗅 ぎ、もし吐いてしまったら窒息の危険もある。私は咄嗟に水代の顎をつかんで呼吸口を塞 いだ。水代は息を吐き切る寸前だったようだ。肺がスタックし、慌てて私の手を外そうと 藻掻き始めた。私は四つん這いの水代に跨るように背後に回り、身体ごと引き剥がすよう に持ち上げて、強引に引きずりその場を離れた。水代に私の意図を伝える暇がなかった。 突然私に背後から抱き上げられて、その上息を止められ、私が狂ったと思うのも当然だろ う。水代は猛然と暴れた。もしゴム手袋をさせていなければ、私の手の甲は血塗れになっ ていたかも知れない。 「暴れるな。もの凄い臭いだ。今の君の状況で吐いたりしたら、どうなるか考えろ!」 私は水代の耳元で怒鳴りながら、充分に距離を取った。手を離すと水代は床にくずおれ、 必死で空気を貪っていた。引き綱を通って謝罪の意が伝わってきた。 『驚愕・動転・暴・掻傷・陳謝・陳謝』 「咄嗟で説明もできなかったから、仕方がないさ」 と答えた時、水代が弾かれたように上体を反らした。先を指差し、震えている。 『虫・虫・虫』 私は振り返った。先の通路に潰れた死体、その衣服の隙間という隙間から無数の黒い粒が 溢れ出していた。ざわざわという音すら聞こえそうだ。まさしく虫だ。薄暗い上に遠目だ というのに、何故かはっきりわかる。そういう記号を発しているのだろう。私は水代の手 から霊酒ガンを取り上げると、水代を引き起こし、脇に抱えて死体に駆け寄った。二つ折 りのように宙吊りにされて、水代が鼻息で呻く。 「息を詰めていろ」 そういいながら、霊酒をあたりに噴霧する。死体まであと数歩という所まで近づき、衣服 をはためかせて溢れ出てくる黒い粒にも浴びせた。普通の虫に霊酒を浴びせても酔っぱら うくらいなものだが、この虫達は霊酒に触れるそばから弾けるように死んでいく。黒いポ ップコーンのようだ。私は一瓶使い尽くして、手近の虫を根絶やしにしようとした。それ でも半分以上は、倉庫の闇の中に逃げ去ってしまった。水代の背負うバックからもう一瓶 取り出して、霊酒を瓶から直接、死体に振り撒く。 『光・粒・何・?』 「視えるかい。空中にも、小さな光の粒子が。浄化の光だ。この死体から流れ出した腐汁 には毒気があったようだね。腐汁も腐臭もすべて浄化してくれる。もう息をしてもいいよ。 霊酒には、そこらの消臭剤よりも遥かに強力な脱臭作用があるからね」 私は空になった瓶をバッグにしまい、新たな瓶をバッグから取り出して霊酒ガンにセット した。念のため自分と水代の全身にも霊酒を吹きつけ、水代にガンを戻す。水代は最初、 恐る恐る息をしていたが、霊酒の心霊作用により、自分がもっとも清々しいと感じる香り を嗅いだはずで、それからは貪るように深呼吸を繰り返していた。その間、私は死体と虫 を観察する。虫が抜け出した死体は萎んでしまい、人相すら判然としない。 「美術センターのスタッフのようだね。作業衣に名札が付いてる。死後・・・1週間以上 といったところか。そしてこの虫は・・・蜘蛛だな。まだ子蜘蛛のようだ。まさに蜘蛛の 子を散らすように、逃げ出していったわけだ。この死体を宿主にしていたのか。ふう。何 はともあれ、先へ行こう。この場所は、お喋りにふさわしい場所でもなさそうだからね」 水代も同感だったようだ。私はこの場を越える間だけスニーカーを履くように指示し、死 んだ蜘蛛の子を踏み潰しながら、死体を避けて棚の仕切の先へ進んだ。水代も、鞄からス ニーカーを取り出し、つっかけただけで私の後を追う。 しかし、その先は修羅場だった。棚が倒れ、荷物が散乱し、大地震の後のような様相を呈 している。私と水代は、蜘蛛の子の体液で粘つく靴底を、床に潰れた段ボール箱で拭いた。 前言を撤回し、水代にはそのままスニーカーを履いているように指示する。水代に着せて いるラバースーツは、こんな混乱した場所を歩くようには想定されていない。脚の底はや や厚めに造ってあるとはいえ、何を踏むかわからないこんな惨状では、ガラスや金属でラ バーごと足裏を怪我しそうだ。 潰れた段ボールからはみ出していた暗幕に尻を落とし、水代はスニーカーの紐を締め直す。 私も、水代の前の床に散らばったテーブルラグの上に腰を下ろし、一息ついた。気配は高 いテンションを保っていたが、動きは感じられない。 「ありがとうをいうのを忘れていたよ。君のおかげで助かった」 水代が顔を上げて首をかしげる。 『何故・感謝・?』 「さっきの首つり死体。あれは罠だったんだ。あの這い回る手首に気を取らせて、死体の 真下で動きを封じ、その上から死体を落とす。打ち所が悪ければ大怪我してただろうし、 そうじゃなくても死体の下敷きになって身動きが取れない所へ腐汁を浴び、死体に巣くっ ていた蜘蛛の大群に噛みつかれて、マイナスエネルギーを大量に注入されていただろう。 霊酒で蜘蛛が死んだだろ。普通の蜘蛛だったら霊酒で死ぬことはない。体内に死気・・・ 生気の逆。マイナスの生体エネルギーのことだよ。死んだ気と書いて、死気・・・を溜め ていたから、霊酒の浄化作用によって死気を溜めるための結界が破れ、自分自身の死気に 毒されて死んだんだ。動く手首には君が物体にしか見えなかったために、君を単なる障害 物と勘違いし、私に飛びかかる寸前の踏み台として、遮蔽物として利用しようとしてくれ たおかげで、先に気がつくことができたし、その上、君が天井の死体に気がついてくれた おかげで、間一髪、落下地点から動くことができた。何もかも君のおかげだよ」 マスクの穴から覗く水代の目が緩んだ。 『単・偶然・自分・恐怖・凍』 「いやいや。偶然じゃないさ。君が一緒に来てくれるという決断をしてくれなければ、あ の罠でやられていただろう。視点が多いというのはそれだけで有利に働く」 『動・手首・感触・恐怖・身体・硬直・自分・無能・反省・謝罪』 「謝ることはないさ。手首が虫みたいに這い登ってきたら、誰だって仰天する。おぞまし かったろう。身体が硬直するのも無理はない。何の防備もない人があれに接触されたら、 ごっそり生気を持ってかれる。君はスーツを着ているから大丈夫だったが。強烈に見入っ てしまって視線を感知されさえしなければ、絶対安全だからね。それを忘れずに。いいね。 引き返して誰か他の霊師に任せたいところだが、ここまで来たら引き返す方が危険だ。逃 げの心は、相手のつけ込みやすいウイークポイントになってしまうからね。だから無理に でも、ぶっ飛ばしてやるくらいの気持ちを作って前に進むよ。さっきの気の動きで、大ま かな位置もつかんだ。ご本尊はすぐそこだ。どうかな、行けるかい?」 『心・拳骨・了解・突撃・可能』 そう返事を返しながらも、水代の身体が震えているのがわかる。私は微笑んで立ち上がり、 水代に手を差し伸べた。水代は素直に私の手を取って立ち上がる。私達は再び距離を取り、 歩き始めた。倒れた棚の間に抜けられるスペースを探す。しかし、抜けられそうなスペー スはなかなか見つからず、道を造ろうにも崩れた段ボールの山は不安定で、ひとつ動かし ただけで全部が崩れてきそうだった。 ようやく、倒れていない棚の間に道を見つけた。そこだけ不自然なほど障害物がない。お そらくここも罠だろうが、ここを進むしか選択肢がなかった。慎重に気配を窺いながら歩 を進める。背後の水代も私の緊張した様子が見て取れ、急速に緊張を高めていたが、私の いいつけ通り必死で落ち着こうと深呼吸を繰り返していた。拳骨、拳骨、と念仏のような 思念が伝わってくる。素直ないい子だ。 抜け道を歩き始めて間もなく、それはあまりにも異様で、あからさまに目を引いた。通路 の中ほど、棚の影の中に一本の腕が落ちていた。一瞬切断された人の腕かと思ったが、よ く見るとマネキンの腕だった。肩から先の真っ直ぐ伸びた腕が、通路の幅いっぱいに伸び ている。 『腕!』 「これは罠だね。見てごらん。ただし、ちらちらと見るんだ。あまり真っ正面からまじま じと見ないように。凝視にこもる生気だけで発動することもある。どう見える?」 水代が恐る恐る寄ってきて、屈み込むように目を近づけた。真っ赤なゴム頭を忙しく振り ながら、いわれた通りにチラ見をしている。しばらくして、ようやく気がついたようだ。 『陽炎・?・揺・?』 「かすかに揺らめいてるように見えるだろ。それと、なんとなく、くすんでいるようにも 見えるはず。これが死気の特徴だ。生気にしても死気にしても、気というものは揺らめい て見える。生気が光として見えるとしたら、死気はくすみに見えるのさ」 『腕・除去・先・進行・不可』 「触ると、罠が発動するだろう。跨いで進むしかないな」 『跨・恐怖。・・・気・撃・罠・壊・駄目・?』 「気色のいいものじゃないけどね。この種の罠は、何ていうのかな、ぎりぎりに引き絞っ た状態になっているから、生気に触れたとたん発動するんだ。霊酒を噴いたり気を撃ち込 むと、その瞬間に弾ける。弾けた後どうなるか、どれくらいの損害を与えるものなのかは、 弾けてみないとわからない。それをも見越して、まとめて粉砕するためには、相当な量の 気を広範囲に、しかも高速で撃ち込まなくちゃならない。できないことはないけど、ひど く消耗するんだ。今は気を温存しておきたい。・・・ただ、君ならスーツを着て生気が遮 断されているから、触っても大丈夫なはずなんだが。嫌だろ。とんでもないだろ。そう目 がいってるよ。とすれば、刺激しないように跨ぐしかない」 水代は一瞬、視線を自分の手に落とした。その手で、あまりにも不気味なマネキンの腕に 触る情景を思い浮かべたのだろう。傍目にもわかるほどに身震いした。水代は、とほほと いう目を私に向けて肯いた。私が先に慎重に跨ぐ。水代に手を貸そうと、前に注意を払わ なかった私のミスだった。水代がおっかなびっくり跨ごうとし、場所を空けるため、私が 一歩後ずさった時、張り巡らされていた蜘蛛の糸の一本を引っかけてしまったのだ。その 瞬間、すべてがいっぺんに起こった。 棚から飛び出してきた動く手首が、私の背中に当たって見えない火花を散らし、蒸発する ように消滅した。次々と、8つの手首が私の背中に襲いかかり、内在する死気を私の背中 の生気にぶつけて対消滅していく。私はついに背中の気のバリヤーを破られ、最後の手首 に体内まで指を突き込まれた。まるで背中で爆弾が爆発したみたいな衝撃を受ける。循環 させていた気の流れは散り散りに乱され、私は暴走した気に内側からも突き上げられ、た まらずに膝を突いてしまった。ここで倒れたら死ぬ。私は勇気でもなく根性でもなく、死 の恐怖から、鉛のようになってしまった首を捩じ曲げて、目を上げた。 死気が私を中心に渦を巻いている。それが私を取り囲むように分裂し、8人の亡霊となっ て凝縮した。立ち尽くす8体のおぞましい姿。首が折れ垂れ下がっている者がいる。頭が 割れ、灰色の脳を溢れさせている者がいる。背骨が折れ、上体を後ろに引きずったままの 者もいた。溶けた内臓の腐汁を吐き続ける女子トイレのふたりの女もいた。静止画のよう だった亡者が、死気のひと揺れでスタートボタンを押されたかのようにギクシャクと動き 出し、ねじくれた身体を揺らめかせて私にすり寄ってくる。 『◎×□△×◎!』 亡者の一体が、水代の眼前に実体化していた。背骨の折れた亡者の、背中に垂れた逆さま の顔に、目が合ってしまったようだ。亡者を目前に視て、仰天して尻餅を突いてしまった のだろう、マネキンの腕を尻に敷き、あせってまじまじと凝視したとたん、マネキンの腕 が動き出し、水代の目を狙って蛇のようにうねくった。水代が反射的に頭を仰け反らせて 避けたため、マネキンの腕は水代の喉に突き当たり、自動的に首を締めつけ始める。そこ までの一瞬を見て取り、私は自分自身のリミッターを外した。丹田に溜め込んだ生気のあ りったけを引き出しながら両手を床に突き、気を全開放して床に撃ち込む。私を中心とし た半径10メートルの床がまばゆく輝いた。光は床から亡霊の体内に駆け上り、そこで弾 けて亡霊達を一瞬で掻き消した。水代の首を締めつけていたマネキンの腕も、光に打たれ、 ぽろりと床に落ちるのが見えた。私が詰めていた息を吐き出そうとした瞬間、水代からの 緊急サインが届いた。 『上・上・上』 顔を上げる暇もなかった。ざああっと雨のような音を立てて、蜘蛛の子が何百匹も降り注 いだ。私は気を撃ちつくし、新たな気を溜めようにも体内の気の循環を乱されていた。口 や鼻から侵入されないように、身を丸めてガードするのが精一杯だった。全身に蜘蛛が群 がる感覚と同時に、無数の死気が撃ち込まれ、私は全身に針を突き刺されたかのような苦 痛に呻いた。なけなしの気を振り絞って撃ち込まれる毒気を中和するが、あまりに多すぎ る。私は呻き、死を覚悟した。 その時、救いの霧が舞い降りた。煎った豆が弾けるように、私を真っ黒に包み込んだ数千 匹の蜘蛛の子が破裂してゆく。真っ黒い花火が炸裂したかのようだった。タンカレーの芳 香が鼻に届く。私は最大級の感謝の念を引き綱越しに送りながら、よろめく脚を叱咤して 立ち上がった。バラバラと蜘蛛の死骸が床に落ちる。目を開けると、必死の目をした水代 が、私だけにではなく、あたり構わず霊酒を振りまいていた。 「もう充分だ。それより、相手がわかった。感じた。今なら相手も疲弊している。行こう」 私は水代の手を取って、棚の奥に進んだ。走れば気が乱れる。はやる心を抑えつつ、摺り 足で精一杯急ぎながら、乱された気を調整し、呼吸とともに練り込んだ。全身の細胞でミ トコンドリアが活発に走り回り、エネルギーを造り出す。吐き気がする。肝臓が腫れぼっ たく感じる。こんな気の急造は内臓を痛めるのだ。しかし、相手も全力で回復を図ってい るはず。スピードが生死の境を分ける局面だった。 第五倉庫の最奥の壁伝いに端の角を目指す。手前には段ボール箱のバリケードが築かれて いた。しかし、申し訳程度のものだった。その向こうが敵のいる場所だ。水代にも手伝わ せて、段ボールのバリケードを崩す。10箱ほどの段ボール箱を投げ捨てると道が開いた。 切り開いた隙間に身を捩じこむようにして、敵の砦の中に入り込む。真っ暗だった。私に 続いて入ってきた水代の背中のバッグから、霊酒の最後の一瓶を取り出し、キャップを捩 じ切って、そこに引き裂いたハンカチの切片を詰めた。それを床に置いて、瓶の口からは み出した布に火をつける。即席のランプができあがった。 霊酒の炎は、その炎の大きさ以上に広く、あたりを柔らかに照らし出す。その光の中に、 おぞましい物体が浮かび上がった。無数の蜘蛛の糸で巻き取られ、白い塊となった女の死 体だった。壁の隅、角に上体をもたせかけるようにして、粘つく蜘蛛の糸で貼りつけられ ている。腐乱しきって半ば骸骨になった顔が、断末魔の恐怖そのままに大きく顎を開いて いるのが哀れだった。蜘蛛の巣にくるまれ骨になった腕に抱かれて、古ぼけた日本人形が 一体、死体の腹にめり込むように鎮座している。端整な顔立ちのはずの日本人形が、今は 異形の相を浮かべている。顔が半ば溶け崩れているのだ。私達はその死体の手前で足を止 めた。水代が一歩下がって霊酒ガンを掲げ、あたりを警戒してくれる。 「こいつだ。この人形。元凶は人形の中にいる」 その人形を包み込むように、黒い障気が揺らめいている。色鮮やかな人形の着物の柄が、 モノトーンに見えるほど濃い障気だった。こんなもの、素手で触ったら普通の人なら即死 しかねない。猛毒だ。しかし、その障気をこちらにぶつけてくる様子はない。私達は間に 合ったようだ。いや、油断はできない。私はためらわず両手を合わせ、背を伸ばして自然 体に構えた。体内には急造した気が怒濤のように回転している。合わせた両手から光が漏 れ出す。大きな光の球体が現れ、私の手を焼き尽くすかのように膨らんでいく。そうして いる内に、目の前で人形の着物が勝手に裂けていった。帯が落ち、着物の前がはだけて、 人形の胴体が晒される。そこにも醜い傷跡のような裂け目があった。そこから何かが押し 出されようとしていた。蜘蛛の子の一群が、必死に薄緑色をした細長い石塊を動かそうと している。 「水代。あれが張本人。呪の本体だ。逃げようとしている。でも逃がさない」 私は両手に造った気の球体を、ゆるやかに突き放した。太陽のような渦巻く光の球体が、 シャボン玉のように宙に浮き、しかし上昇することなく一直線に空中を流れ、人形の胸に 衝突した。 頭に杭打ち機で鉄杭を突き刺されたような、痛みさえ生じさせる絶叫が倉庫を揺さぶった。 棚が揺れ、段ボールが落ちる。物理的な衝撃さえあったということだ。人形が弾け飛び、 その下の死体も潰れた。蜘蛛の糸が千切れ飛び、その下の腐汁で汚れボロボロになったス カートの生地の上に、緑色の石塊が鈍い音を立てて転がり落ちる。その上端が外れて、中 の白い粉がわずかにこぼれ出した。 そこまで見るのが精一杯だった。私はその場にくずおれた。糸が切れたかのように身体が すとんと落ち、正座するような格好になって、そのまま右に倒れ込む。 『瀬那!!』 水代が駆け寄り、床に衝突しようとしていた私の頭を、ぎりぎりで抱き留めてくれる。期 せずして、膝枕のような格好になった。 『死・駄目・!・駄目・!』 昔、こうして膝枕されていたことを思い出し、もう少し感傷に浸っていたくて死んだ振り でもしようかと考えていたが、水代の必死の呼びかけが私を苦笑させてしまった。 「まだ、死なないよ。気を使い果たしてしまっただけだ。もう少し休めば、起きあがれる くらいには回復する。でも、心配してくれてありがとう。もう少し膝枕されていたいんだ けど・・・」 息が切れる。話すのも辛い。私は無理矢理肺を拡げて息をついた。 「・・・君にお願いがある。あの、石の瓶を始末しなくてはならない。スーツを着た君な ら触れる。頼む」 水代の動揺が伝わってきたが、勇気を振り絞る力も感じた。ほんとうにいい子だ。 『了解・始末・方法・伝達』 「鞄の中に、君のスーツと同じ処理をしたゴムのシートがある。それに、魔法瓶に似た容 器を出して。そのシートの上に瓶の中の粉を空けて、粉の中に異物があるからそれを探し て。恐らく、蜘蛛の死骸だと思う。霊酒ガンにセットしたボトルを外して、その死骸に中 味の残りを振りかけて、あの即席ランプの火をつける。燃やして、灰にして・・・」 また息が切れた。しかし、充分理解してもらえたようだ。水代は私の頭をそっと膝から外 し、勇を鼓して立ち上がった。鞄からシートと容器を取り出し、シートを死体の足元に拡 げる。まさにおっかなびっくり死体を回り込み、その腹の上の石瓶をつまみ上げた。シー トの上で石の瓶を逆さにする。中からこぼれだした白い粉がシートに小さな山をなした。 水代が震える指でその粉を掻き分けると、中から干涸らびた黒い塊が現れる。 『在中・蜘蛛・ミイラ』 「もう、悪さはしないよ」 そういって安心させてやると、水代は霊酒ガンのボトルを外して、中味の霊酒を蜘蛛の死 骸に振りかけた。そして即席ランプを手に取ると、その火を蜘蛛の死骸に押し当てる。蜘 蛛の死骸はあっという間に聖なる火に包まれ、燃え尽きていった。その奥から何かが拡が り、そして砕けるように消えた。呪は解かれた。チン。カン。と天井で音がして、水代が 怯む。しかし、消えていた天井の蛍光管が再点灯する音だと気がついて、息をついた。 「灰をシートで包んで。鞄の中にビニールテープがあるからそれで厳重に縛ってくれ。そ れを・・・容器を開けて中に入れたら、舎利・・・石の瓶も一緒に中に入れて。死体の上 に転がってる蓋も忘れずに。そしたら容器を閉めて、きっちり閉じるんだ。それで・・・ 終わりだ」 水代がいわれた通りに動き、封印容器の蓋をきつく閉めるのを見届けた。 「よくやった。もうマスクを脱いで、服を着てもいいよ。悪いんだが、頼まれついでにも うひとつ。私の携帯の発信履歴でここの総務の馬越さんを呼び出して、終わったことを伝 えてくれ。警察と救急車の手配も頼んで」 それから、私は宣言する。 「悪いけど、私は今から失神するからね。後は・・・頼む・・・」 私は失神した。 ☆彡9. 目覚めて最初に目にしたのが、ルナティックのママの厚化粧の顔。もう一回失神しようか と考えたが、とてつもなく喉が渇き、腹が減っていたから、しかたなく手を挙げて「よお、 先輩」と挨拶した。口の酸素マスクに声がくぐもり、挙げた手と一緒に点滴の管が持ち上 がる。鬱陶しいことこの上ない。 「ああ、恭ちゃん。気がついた。よかった。アンタ、心配かけ過ぎよ! ああ、よかった」 涙ぐんでいる。照れくさいので見ぬふりをし、私は体内の気の循環を確認した。絶対的総 量が足りないものの、循環そのものはスムーズなようだ。ママをあまり放っておくと、溶 けたマスカラで目の周りがホラーになり、除霊したくなりかねないので話しかける。痰が 絡んだ。 「水代君はどうしてる?」 「一昨日までここで寝ずの看病してくれてたんだけど、器械が壊れて火を噴いたり、給湯 室と配膳室で立て続けに2度もボヤ騒ぎがあったりした後に、その事故が自分のせいだっ ていってアンタのマンションに帰ったの。健気な子ねえ。不和美加も仕事を調整して、夕 方からはずっと付きっきりだったのよ。アンタみたいな唐変木が、何で若い子に慕われる のか不思議よね。例の力を悪用してるとしか思えないわ。アンタもいい加減、不和美加を 何とかしてあげなさいよ」 「何とかって・・・ふう。纏い付かれて困ってるのはこっちなんだけどなあ。まあいいよ。 ところで、どのくらい寝てた?」 「おおよそ4日よ」 どうりで喉が渇いているはずだ。 「飲むものない?」 そういうと、ママが吸い飲みを手渡してくれた。鬱陶しいマスクを外して、ストロー部を 咥える。生ぬるいが、起き抜けの一杯にはこれでいいのかも知れない。一瓶空けると、ず いぶん気分がマシになった。私はよっこらしょと上体を起こし、点滴を引き抜き、指先に 取り付けられた酸素飽和度をチェックする器具も外した。胸に貼り付けられている電極も 外すと、横の機械がご臨終を告げるピーッという音を響かせる。ママが慌てて私を諫めた。 「ちょっと、何してんの。寝てなきゃ駄目よ。アンタ、救急車の中で心臓止まったんだよ。 ちょっと、こら、恭ちゃん」 ベッドから降りようとして、何とペニスに導尿管が差し込まれているのに気づいた。引っ ぱって抜こうとすると、膀胱が引攣れるような感覚がして抜けない。ちょうどその時、器 機の異常を知って駆けつけてきた看護婦が現れた。 「ああ、駄目です。瀬那さん。動かないで」 と、慌てて私をベッドに押し戻そうとしたが、私はいうなりになる気などなかった。全身 の細胞が、一刻も早くと、血の滴るステーキを求めていたのだから。それからの騒動は思 い出したくもない。医者を半ば強迫するように退院を認めさせ、1時間後にはママとふた りでタクシーに乗っていた。行き違いになると可哀想なので、ママに不和美加への連絡を 頼み、その間に私は自分の携帯で知り合いに電話をかけた。タクシーに寄り道させ、マン ション近くのスーパーでステーキ肉を4kg分買い込む。そして懐かしの我が家へ、どや どやと入り込んだが、水代の姿が見えなかった。 「おーい、水代君。今帰ったよ。・・・あれ、外出しているのかな」 玄関脇の水代の部屋をノックしてみるが、返事はない。念のため、大家の権限を行使して ドアを開けて中を覗いたが、姿はない。首を捻りながらダイニングに入り、買い込んだ食 材をカウンターに置いた時、腕まくりしてエプロンを手にしようとしていたママが、あら あらと笑ってソファを指差した。私の位置からはわからなかったので、ママの横まで行く と、ソファの陰から真っ赤なゴムの塊が覗いている。その滑稽さに、にんまりと笑いが込 みあげた。 キッチンカウンターを回ってソファまで行き、後ろを覗き込むと、そこに全身を頭まで封 印スーツに包み、正座して身体を伏せ、頭を抱え込むように丸くなっている水代がいた。 真っ赤なゴムがぬめり、まるで巨大な肉の塊だ。ぷるぷると震えている。私は笑って水代 の肩を叩いた。 「水代君。大丈夫だよ。ママはこのスーツのことよく知っているから。恥ずかしがらなく ていいよ」 「懐かしいわねえ。真理が着ていたヤツでしょ」 水代がボールになった頭を上げる。マスクの穴から泣きそうな目が覗いていた。ご丁寧に 首輪まで締めている。私はマスクの後ろのチャックを開けてやった。水代がダメっという ように頭を振ったが、私は構わず、マスクを外してやる。汗まみれの水代の顔が現れたと たん、キッチンでママの悲鳴が響き渡った。振り返るとガスレンジの炎が30センチ近く も噴き上がっている。私が駆けつけようとしたとき、ママがビビリながら手を伸ばしてガ スのコックを閉めた。 「大丈夫かい、ママ。火傷は?」 「大丈夫よ。ビックリしただけ。これ、水代君の力なの?」 「力っていうより、厄みたいなもんだよ」 水代を見ると、自分でマスクを被り、チャックを閉めているところだった。 「私がグースカ寝ている間に、結構進行しちゃったみたいだね。悪い悪い」 水代に手を貸して立たせると、ソファに座らせた。 「ママ、もう大丈夫だから、飯頼むよ。胃袋が家出して通りのレストランを襲撃しそうだ」 アイヨッとの声を聞きながら、私はキッチンカウンターからハサミを持ち出し、水代の前 に座ってマスクの口の部分に手を伸ばした。水代はダメだとばかりに手を振る。 「口が利けなくっちゃ不便だろ。話ができるように、穴を空けるだけさ。そのくらいなら 大丈夫だと思うよ」 そういわれて安心したのか、水代は顔を突き出すようにして目をつぶった。私はマスクの 口の部分をつまみ上げ、小片を切り取る。楕円形の穴が開き、水代の少女のように可憐な 唇が覗いた。水代がうつむき、その穴からマウスピースを吐き出す。 「水代君は夕食は摂ったのか?」 「いえ、まだです」 「ママ、水代君の分も頼むよ」 ワカッテルワヨッとの声に重なって、フライパンに落とされたバターの弾ける音が、私の 胃袋をくすぐった。水代が身を屈めるようにして自分の部屋へ駆け込み、シャツとジーン ズを身に着けて戻ったときには、ワインでフランベまでした分厚いステーキが焼き上がっ ていた。 「ママの料理は絶品だからね。とにかく食べよう」 ゴム頭がうなずき、私達は言葉も発せずに食べまくった。ママがあと4枚分のステーキを 焼き上げ、店の準備があるからと帰っていった後も食べ続ける。私はいつものようにチャ クラを活性化させ、消化吸収能力を狼男並みに上げて、2kg分のステーキを平らげた。 野菜という単語は、辞書からいったん削除してある。水代もあまりの美味さに一枚は何と か平らげたものの、そこでギブアップした。私が食べ続けている間、ママが沸かしてポッ トに入れてくれていた湯を使って、渋い緑茶を煎れてくれる。私が食べ終わってソファに 反っくり返ると、皿を片付けてくれさえした。 「いやあ、悪いね」 「いえいえ。でも瀬那さん、お体はもういいんですか。救急車の中で・・・」 「心臓が止まった。だろ。大丈夫。あれは全身の気の流れを最低モードに低下させて、急 激な気の払底によるダメージを和らげるための、何といったらいいのかな、身体のリスタ ートみたいなものでね。私の本能的な自己防衛だから。不和美加の指示で、とりあえず大 量のブドウ糖点滴をしてもらえたみたいだし、今食べたステーキで完全に復調したよ。そ れより、またありがとうをいうのを忘れていたね。ありがとう。ほんとに君がいてくれな かったら、今頃あのスタジオを彷徨う亡霊のひとりになっていたとこだ」 「いえ、僕なんか、もう恐怖のあまり無我夢中で」 「謙遜はなしだ。それで、容器は・・・封印した容器はどうした?」 「怖いんで、瀬那さんの部屋に入れてあります」 「そうか。ありがとう。もひとつ、病院でずっと看病してくれたんだってね。ありがとう」 水代が照れ臭そうに笑ってゴムマスクを引攣らせた時に、エントランスからのチャイムが 鳴った。水代が慌てて自室に籠もろうとするのを止める。 「大丈夫。恥ずかしがることはないよ。この時間なら不和美加だろうし、不和美加もその スーツのことはよく知っている。私の妻が着ていたものだからね。仕事着みたいなものだ。 どうせ不和美加がぎゃんぎゃん聞きたがるだろうし、水代君にも聞いて欲しいから、その ままいてくれないか」 「不和美加さんに、こんな顔を見られるなんて。とほほです。でも、わかりました・・・」 私がエントランスドアを開けてわずか十秒後には、不和美加が憤怒の形相で部屋に突撃し てきた。 「まったくもう。無茶して。あれほど無茶しないでって頼んだのに。恭ちゃんにもしもの ことがあったら、私、お姉ちゃんに化けて出られるわよ。しかも、病院まで無茶苦茶いっ て退院しちゃうし。もう、子供じゃないんだから、心配かけないでよ」 と、いちいちごもっともな説教を、はいはいとしおらしく聞き流しながら、不和美加のガ ス圧が下がるのを待つ。水代は最初、私の横で、マスク顔の変態じみた姿を見られるとい うことに恥ずかしそうにしていたが、不和美加が歯牙にもかけないで説教しまくっている ので拍子抜けした様子だった。恥ずかしさは薄れたものの、不和美加の剣幕に、自分が叱 られているような気分になったのだろう、しゅんとして身を縮めている。ふたりしてうな だれていると、そのうち私の靴下の脱ぎ方まで説教されそうな気配になったので、へへ〜 っとテーブルに平身低頭し、不和美加の失笑を誘った。 「もう。真面目に聞いてないでしょ。恭ちゃん」 「いや、まあ、その、何だ。こうして水代君も私も無事だったんだから、よしとしようじ ゃないか」 「どこがよしなんだか。もお。わかったわよ。で? どんな状況だったかは水代君から聞 いたけど、相手は何だったの? ただの霊じゃあこんな大事にはならなかったでしょう」 「うん。『呪』だった。昭和初期の日本人形に埋めこまれていたが、本体は鎌倉、いや平 安時代のものだろう。鎌倉時代にあれほど凶悪な『呪』を造れる術者はいなかったろうか らね。『呪』が解ける時の一瞬の開放で得た感じでは、おそらく帝クラスの世継ぎ争いで、 世継ぎを呪殺するために造られたものだと思う。昔々に中国から渡ってきた呪いの方法の ひとつに、『蠱毒』というとんでもない凶悪な術があってね。皿や壺の中に蜘蛛やら百足 やら、さまざまな種類の毒虫を一緒に入れて殺し合いさせ、最後に生き残った一匹を使っ て『呪』を造るやり方なんだ。犬や猫の小動物を使うやり方もある。生き残った一匹を黒 焼きにして、その粉を呪う相手に振りかけたり食べさせたりするんだが、相手もそういう わかりやすい行為は警戒しているし、相手の身近な場所に埋めるという方法だと、ピンポ イントの効果は期待できない。おそらく人形の中に入れて献上したんじゃないかと思う。 殺したい相手が子供だったろうからね。そのために蜘蛛を殺してミイラにし、さらに術者 の腕か何か、身体の一部を切り落として焼き、その骨を砕いた粉と一緒に、翡翠で造った 舎利容器といわれる小瓶に詰めたものが『呪』の本体だった」 「あの、白い粉・・・骨だったんですか」 水代が気味悪そうにつぶやく。 「やり方はいろいろあるが、『呪』の精度を高めるためにはなかなか効果的な方法だと思 うよ。その『呪』が功を奏したか否かはわからないが、結果として舎利容器は野に下った わけだ。それから千年以上だからね。とんでもない数の犠牲者が出ただろう。寺に収めた り、埋められたり、封じるための努力も時々に行われただろうが、戦乱の時代だからね。 総本山クラスじゃないと安全に保管するなんて不可能なくらい強力なのに、並みの寺に持 ち込まれたりして、何人もの坊さんが犠牲になっただろうなあ。『呪』そのものに、自分 自身を人形に入れてカモフラージュする、といったプログラムが施されていたんじゃない かと思う。『呪』の犠牲者達の手を利用して、何度も新しい人形に移っては、誰かれ構わ ず呪いをばらまいてきたんだろうね。めちゃくちゃに緻密で、狡猾で、強力な『呪』だっ た。重要文化財クラスだね」 「そんな凄いものだったの?」 「まあね。剥き出しのプルトニウムくらい危険だった。ただ、最後の最後に人形の着物が 破れて、ちらっと見えたんだが、あの人形は聖人クラスの封印の名残があった。比叡山系 かな。すると最澄その人直々の封かも知れない。それが信長の焼き討ちで再び世に出たか。 そんな印象もあった。撮影の小道具として、美術スタッフがどこかから持ち込んだ時には、 まだその封印が機能してたんじゃないかと思う。それを知らずに、美術スタッフがぞんざ いに扱って封印を傷つけてしまったんだろう。私達が闘ったときですら、呪の本来の力の 2割ほどしか機能してなかった感じだ。呪のプログラムは、封印を完全に破るために人を 殺しまくって死気を集め、自分の手足として使役するための蜘蛛を養殖もして、ようやく 脱出の準備が整いかけた。私達が訪れた時は、まさにぎりぎりのタイミングだったんだろ う。もし、封印が完全に破られてたら、私も水代君も今ここにはいなかっただろうね」 「でも、もっと簡単に、犠牲者の人を操って封印を何とかするとか、人形の中から取り出 すとかできなかったんですか?」 「死気で操られているものは、あの封印には触れない。だから大量の蜘蛛の子を培養して、 数で何とかしようと図ってたんじゃないかな。封印様々ではあるんだが、そのおかげで本 体の気配が絶たれ、近づくまでその正体も力量もわからなかった。でも、まあ、結果よけ ればすべてよしだ」 「結果よければって・・・体調はどうなの?」 「もう、万全だよ。気の消耗は現代医学じゃ治せない。点滴に生気はほとんど含まれてな いからね。今度ぶっ倒れたときは、輸血してくれた方が助かるな。吸血鬼じゃないけど、 直接血を飲むっていう手もある」 「じゃあ、今度恭ちゃんがぶっ倒れたら、私の血を輸血してやるからね」 「う・・・それは、勘弁願いたい」 「ふう。そんな軽口がいえるんなら、大丈夫そうね。・・・私、現場に戻るわ。撮影のス タッフに思いっきり迷惑かけたし」 バッグをつかんで立ち上がり、不和美加は水代にいった。 「水代さん、しばらくこのおっさんの監視お願いね。それにしても、そのマスク、懐かし いなあ。お姉ちゃんを思い出しちゃう。マスクまでしてるってことは、内側で溢れかけて るんでしょ。このおっさん、そっちのプロだから、治療と思って恥ずかしがらずに、浄霊 してもらうという手もあるから」 「は、はあ・・・ええ。そのつもりです」 私は驚いて水代を見た。今の発言の真意を訊こうとしたが、その時、エントランスからの チャイムが鳴ってタイミングを外してしまった。 「あら、ルナティックのママかしら?」 私は、インターフォンに向かいながら答える。 「たぶん、鳴神のペアだよ。タクシーの中から電話しておいた。時間通りだ」 「わお。鳴神さん達。久しぶりだわ。6年ぶりかしら」 私はモニターに鳴神夫妻を確認して、エントランスを開ける。 「不和美加、鳴神に送ってもらえば?」 そういいながら、私は寝室に向かう。 「そうね、そうしよ。道々、礼子さんとお話したいし」 私は寝室の床に置いてあるバッグから、件の「呪」の残骸を収めた封印容器を取り出した。 蓋がしっかり閉まっていることを確認し、それを持って玄関に行く。待つほどもなくドア がノックされた。私を押しのけて不和美加がドアを開け、そこに立つ不和美加クラスの美 女と手を取り合ってはしゃぎだした。私はその騒ぎを横目に、飄々と立っている黒ずくめ の男に手を差し伸べた。握手の一瞬、圧縮した今回の情報を送りつける。 「久しぶりだな。瀬那さん。元気そうだ。あの瀬那が復活したって、すでに業界で噂にな ってるよ。復活第一弾がとんでもないものだったらしいな。高野山で僧達が色めき立って る。歴史的発見だそうだ。とりあえず持ってこいとのお達しなもんで、これから配達して くるよ。そのスタジオの浄霊はその後でも大丈夫かな」 「手数をかけるね。この償いはまた後で。不和美加に都合をいいつけてくれれば、スタジ オの総務に連絡して手配できるはず。『呪』の本体はここにあるし、死者達は急がないか らね。ギャランティは私から振り込んでおく。よろしく頼むよ。それと、お願いついでに、 不和美加を撮影現場まで送ってもらえないだろうか」 「承知した。それとギャランティは高野山からでるそうだから、気にしないでくれ。現場 の検証もしたいといってるので、その都合も含めて、不和美加に連絡するよ」 私は頷いて、封印容器を手渡した。 「確かに」 「では、よろしく。・・・不和美加、礼子さんにあまり迷惑かけないようにな」 「わかってるって。じゃあね」 一団が去り、私はドアに結界を張った。リビングに戻ると水代がぽつねんと座っている。 「私の仲間だよ。時間がないそうなので紹介しなかったが。彼らも浄霊のエキスパートだ。 あのスタジオで死んだ人達の浄霊を頼んだ。それとあの呪の容器を高野山の寺に運んで保 管してもらう。日本でいちばん霊的に安全な場所だから」 「そうですか。よかった。・・・あそこで最後の最後に、トイレから開放された女の人達 も現れたじゃないですか。結局、逃げられなかったんだなって、可哀想で」 「うーん、あれはトイレで解き放った死者とは違うんだけどね。呪によってコピーされた 死者の写しみたいなもので、ただの影さ。でも、鳴神夫妻がそういうものも含めて、キレ イさっぱり浄化してくれるはず」 「そうなんですか・・・」 言葉が途切れた。何となく気まずい沈黙が降りる。私は内心期待するものがあった。だか ら、あえて冷めてしまった茶を啜りながら、水代に目を向けずに口をつぐんでいた。長い 長い沈黙の時間が過ぎていく。視界の端で、水代が何度も身じろぎし、膝に置いた手を握 っては開きしているのが見える。茶を飲み干してしまった私は、手持ちぶさたを埋めるた めに、煙草に火をつけた。4日ぶりの紫煙は弱った肺にきつく、脳細胞にくらくらと染み 渡る。さて、どうなりますか。 「あ、あの・・・瀬那さん・・・」 「ん? 何だい?」 「あ、あの、その・・・お茶のお代わりは・・・」 「いや、もう結構。ありがとう」 私は最上級の笑顔を向けてやった。水代が私の視線から逃げるようにうつむく。再び沈黙。 しかし今度は、1分もしないで、再び水代が決意を新たにした。 「あ、の・・・瀬那さん・・・」 私は返事代わりに水代を見やる。 「あの・・・あの・・・その・・・つまり・・・」 語尾が消える。再び水代は萎む気配だ。私はくすっと失笑してしまった。まあ、こういう のはあまり追い詰めてもよくない。 「わかってるよ・・・」 えっと見返す水代の視線を受け、私は伸びをしながら立ち上がり、ゆっくりと服を脱いで いった。水代があっけに取られて凍りついたように見つめる中、私はパンツまで脱ぎ捨て て、水代の目の前に全裸を晒した。 「あの、いや、何で・・・」 「浄霊する必要を痛感しているんだろ。私に浄霊を頼む決心をしたものの、男同士のセッ クスなんてなんて今まで想像したこともないし、生理的嫌悪感が強くて踏ん切りがつかな いというわけだ。・・・私としては適当に甘い言葉と脅し文句を使い分けて君をその気に させることもできるんだが、そうはしたくない。残酷なようだが、君自身がきちんと決意 して、積極的に私を受け入れる気にならなければ浄霊なんてできない。だからどんなにお ぞましくても現実から目を背けて欲しくないんだ。今君の目の前にある肉の棒、これが現 実さ。君は私に抱かれて、私の体臭と口臭を嗅ぎ、私と口づけして唾液を飲み合い、身体 中を舐められて私の臭い唾を擦り付けられ、それからこの恥垢だらけのイカ臭い亀頭を、 君は喜んで舐め、しゃぶり、吸い、精液を飲まなければならない。そして、自分から尻の 穴を拡げ、腸液を垂らして、女のように尻を振る。この肉棒が太く硬くなって君の肛門に めり込み、深々と刺さって君の直腸を掻き回すんだ。出すべき場所に入れられ、ピストン 運動で腸の襞を逆撫でされながら、私が感極まるまで激しく摩擦される。それらをすべて、 心の底から望み、ひとつひとつを喜びと感謝で受け入れなくちゃならない。つまりは、そ れが現実なんだよ」 水代がぶるっと身震いした。その目は私の股間の男根に注がれている。 「一朝一夕にそうなれるはずもない。となれば君は私の性欲処理の相手にされて、毎日毎 日、何度となく私に尻の穴を犯され、肛門での性行為に慣れなければならない。私との肛 門性交で、君がエクスタシーを得られるかどうかが浄霊の鍵だと話したはずだが、ペニス でのそれとは違うんだ。そうそうお手軽に得られるものではない。大腸検査で内視鏡を入 れられる時のように、嫌々でも我慢していれば終わるってものじゃない。君が私という男 を心から信頼し、すべてを委ね、非の打ち所のない忠誠とをもって受け入れなければ、エ クスタシーなど得ることもできないだろう。簡単にいえば、私を愛さなくてはならないっ てことさ」 肯定なのかただの相づちなのか、水代は小さく頷いた。恐らくただの相づちだろう。 「さて、考えてごらん。もしもそうなって私を愛するようになり、エクスタシーを得られ るようになって、男同士の肛門性交に慣れてしまった後で、浄霊が済み、君は何事もなか ったかのように今までの生活に戻り、そこらの女の子と恋をできるようになるのだろうか。 私は無理だろうと思うよ。君はもうその時点で、君が今忌み嫌っているだろう立派なホモ になっているのさ」 水代は、凍りついたように動かない。私はソファに尻を落とす。眉毛を触るのは、いいに くいことをいうときの私の癖だ。 「君が男だからというわけではなく、浄霊とは、そういう生臭い行為なんだ。生臭ついで にもうひとついっておくと、君にとって不幸なことに、私にはサドっ気がある。私が長年 構築してきた依代と浄霊者の儀式には、私の性欲を高めるために私の趣味が色濃く反映さ せてある。そのやり方を今更変えることはできないし、ということはつまり、君はマゾと しての扱いにも慣れなくちゃならないということなんだな。申し訳ないとは思うんだが。 浄霊が終わる頃には、君は立派なホモのマゾになっているというわけだ。君は肉体だけで なく、精神まで犯されることになる。そして、最後のとどめの話がひとつある。前にいわ なかったのは、男の依代という特異な存在の場合、どうなるかという前例がないからなん だが・・・浄霊者がセックスの時にペニスに集める気には、相手の女性に大量の女性ホル モンを分泌させる効果がある。医学的に検証されていてね。過去の依代は全員女だったか ら、これ以上ないというほどの美顔・美肌効果や身体の豊満化があっても、喜ばれこそす れ問題はなかった・・・。相手が男というケースは前例がない。文献にもそんな細かな部 分の記述はないし。だが、もしも男の君にも同じ作用が働くとしたら・・・君は大量の女 性ホルモン分泌によって、身体的にも女性化するだろう。・・・浄霊が済んで、私との交 わりを止めれば、徐々に元に戻るとは思うが、完全に戻るのかどうかは保証できない」 水代は唇を噛み、うつむいた。私は声のトーンを落とし、優しく語りかけた。 「君は気持ちよいほど素直な子だ。私としてもできるなら君を辛い目に遭わせたくはない。 そこまでして、体内の霊を浄化する必要があるのかどうかも疑問だ。高野山の研究所に行 って研究してもらえば、もしかして性交なしで浄霊する方法が見つかるかもしれない。あ るいはハリウッドの特殊メイクのように、全身を包んでも外見が異常に見えない封印スー ツが開発できるかもしれない。時間はかかるだろうが、可能性はある。もしそれを望むな ら、私が責任を持って手配しよう。どうだい?」 水代はうつむいたまましばらく動かなかった。それから、頭を振った。 「私との浄霊を望むっていうことなのか。・・・驚いたな。じゃあ、もう一度確認するよ。 君は、私のホモ性交相手となってマゾ奴隷扱いされ、身体が女性化しようとも、私のペニ スをしゃぶり、精液を尻の穴の奥深くに種付けされる覚悟が、ほんとうにあるのかな?」 私は自分のペニスをつまみ上げ、水代に振って見せた。水代は瞬きもせずに私のペニスを 凝視していた。その喉がごくりと鳴る。私のいったことが水代の頭に染み渡るにつれ、水 代の目が一瞬うろうろと落ち着きをなくす。そのまま自分の部屋にでも逃げ込むかなと考 えていたが、水代は違った反応を見せた。大きく息を吸い、いったん止める。そして絞り 出すように息を吐いた。 「はい。覚悟してました。・・・この4日間、考える時間だけはたっぷりありましたから」 「うむう。驚いたなあ・・・。マゾ扱いだよ。身体が女性化するかもしれないんだよ」 「マゾ奴隷は意外でしたけど。それって痛いですか?」 「血を見るようなことはないがね。オママゴトでもない」 「わかりました。慣れます。女性ホルモンは・・・なるかならないかもわからないし、な ってしまったら考えます。といっても、考えたってどうにもならないでしょうから、副作 用みたいなものだと諦めるしかないんでしょうけど。あの・・・訊きたかったんですが、 あの時、倉庫での時、首輪とコードで思念の会話ができましたよね。あれって、そうする ことで僕の心に、例えばですけど、瀬那さんに対する好意とか信頼を植えつけたりできる ものなんですか?」 思った以上に水代が動揺しなかったことで、私の方がたたらを踏むような格好になってし まった。 「え? いや、まあ、力ずくで思念を押し込むことはできるが・・・それでも好意とか曖 昧で広いものを強制しようとすれば・・・相手の精神を破壊しかねないし、なにより相手 にだってわかるから、必死で抵抗するだろうしなあ・・・どうだろう?」 「了解です。ということは・・・精神が繋がることで自然に湧き上がる信頼感・・・とい うわけか。もうひとつ訊かせてください。あの・・・ほんとに・・・瀬那さんは・・・僕 なんをセックス相手にしていいんですか。あんな素敵な不破さんがいるのに」 「不和美加? いや、あれは・・・義妹だし・・・。いつかはセックスして、封印を解い てやらなければならないが・・・。今は、せっかく芽が出た芸能界でがんばって欲しいと 思っているだけで・・・。そんな気は起きないよ。妹としての感情だけだ。君に関しては ・・・そうだね・・・自分でも不思議なくらい、好意を持っているよ。君の素直な性格が 微笑ましい。依代という体質をもつ人は、その性質上、実に素晴らしい心を持っている。 君もそうさ。男だろうが女だろうが、人間として素晴らしいことに変わりはない」 「ありがとうございます。・・・でも、不破さんの封印って?」 「ああ。いや、その、姉の死でね・・・自分も依代となるって息巻いて。放っておくと、 ひとりで先走って命を落としかねなかったから、私が依代の素養を封印したんだ。君と違 って、依代体質は完全に発現していなかったからね」 「そうなんですか・・・。発現しちゃってる僕の依代体質は封印できないんですね」 「んー、安部晴明とか空海上人なら可能かも知れないが。残念ながら、現代では無理だろ う。そう、もうひとつ、いっておかないとフェアじゃないな。・・・君の浄霊だが、私で なく他の浄霊者に施してもらう選択肢もある。さっき来た鳴神でも可能だよ。礼子夫人も 喜んで受け入れるはず。さもなくば、相方のいない若い浄霊者と組むという方法もあるよ。 最近の事情には疎いが、霊師の組織に訊ねれば、紹介してもらえる可能性がある」 水代はコンマ1秒ほど考えて、首を振った。 「いえ。瀬那さんがいちばん信頼できます。スタジオのトイレで、あの女の人達への接し 方を見ましたから。その後、あの大パニックの最中に霊に取り囲まれた時ですら、首の綱 からとても温かい気持ちが流れてきたし。言葉なら嘘や方便もあるでしょうけど、綱を通 して伝わってきた想いは嘘つけないんですよね。嘘をつけるとしたって、あんな生きるか 死ぬかの戦闘中に、僕に嘘の印象を流す余裕なんてあるわけないし。僕は瀬那さんを信じ ます。・・・浄霊は急ぐ必要があるみたいです。霊と関係した事故も増えてますし、瀬那 さんが入院していたここ数日、ときどき感情が急激に揺れ動いたり、自分の記憶にない情 景が見えたりするようになりました。瀬那さんに施してもらった視床への刺激のせいなん でしょうか。それって、恐らく僕の中にいる霊達の記憶なんでしょう。それが不気味でも あるんですが・・・何といったらいいのかな・・・悲しいんです。哀れなんです。例え、 霊というものが記号にすぎないとしても、プログラムなのだとしても、その悲しみは本物 です。解き放ってあげたいんです。瀬那さんにいろいろ脅かされて、不安もありますけど、 僕の中の悲しい想いを抱いた霊達は、乱暴にじゃなく、優しく成仏させてあげたいんです。 だからこの目で見て、この耳で聞いて、心でも確かめられた瀬那さんの優しさを信じます。 お願いします。どうか僕の中の人達を浄霊してあげてください」 そういって水代は、深々と頭を下げた。 ********************************************************************************* yorisiro3.txtに続く